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了/観たものについて書く。

2021年6月(展示)

※現在開催中の展覧会の内容に一部言及しています。


東京ステーションギャラリー「コレクター福富太郎の眼:昭和のキャバレー王が愛した絵画」

 個人コレクターの収集作品のみで構成した展覧会は、今まで意外と観てこなかったかもしれない。

 好きだったのは池田蕉園《秋苑》(1904)。猫を抱いたきもの姿の女性の絵で、キャプションでは「生硬」と表現されている作品なんだけど、縦長の画面に合わせるようにスッと下りた袖の線と、女性の手や猫の白く繊い線の対比がよい。

 それから伊東深水《戸外は春雨》(1955)は、まさに公演の最中である劇場のバックステージを、3枚にわたって*1ぐるっと巡るように描いている。楽屋に控えている人たちそれぞれの様子を垣間見る探し絵的な楽しさがあり、また身体をなぞる丸っこい線も魅力的。タイトルもかっこいい。

 向井潤吉《影(蘇州上空にて)》(1941)は「MOTコレクション いまーかつて 複数のパースペクティブ」(東京都現代美術館/2020)にも出展されていたけど、あちらが展示全体で鳥瞰視点のリピテーションを誘導していたのに対して、こちらは飛行機の雄大な影に却って戦争の不穏さを読み取ってしまう*2ような、現代鑑賞者の視点のありかを意識させる構成となっていた。

 

・MES 「DISTANCE OF RESISTANCE / 抵抗の距離」(TOH)

 一室で完結した空間内、他の鑑賞者と視線がかち合わないよう、身体の角度を微妙にずらし続けながら展示を見ていた。

 コロナの影響を受けるずっと前から、街は変わり続けていた(脅かされていた)と指摘するMES。彼らは街に繰り出し、レーザーポイントでメッセージを投射する。展示されていた記録写真には、まるでその場所にもともと存在していた看板を撮影したかのように、流麗な文字が躍っている。

 そのような写真とは裏腹に、投射の実際を追った動画では、ハンドサインがふるえながら浮かび上がった後、すぐに消えた。観る者によっては頼りなくも映りそうなその揺らぎは、しかし手指の感情的・反射的な感覚や反応を、そのまま直接に触ることのできない(=手を出すことができない)領域へと伝わせていくように見える。

 以降は展示者の意図とは離れたところにある話なんだけれど、プロジェクションマッピングやライトアップといった、今日において行政や公共機関の穏当なアピール手段とされている投影の技法が、本来どれほどの強烈な主張性を持ちうるかについて、逆説的に気づかされる展示だった。

 

横浜人形の家

 小学生の頃、梨木香歩『りかさん』とか人形が出てくる児童文学を好んで読んでいた時期から訪れてみたいと思っていたので、ようやっと機会を得た感じだ。

 全国・世界の郷土人形がずらりと並んだ部屋がやはり壮観だったのと、市松人形とビクスドールの制作工程を横並びで比較展示していたのが面白かった。お顔の絵付けまで終えてから目を填めこむビクスドールに対し、市松人形は一度胡粉で固めた上からまさに目を「切り出す」のだ、と知る。本来は展示ケース下の引き出しで人形のパーツをハンズオン展示しているようだったけど、コロナ対策で封鎖されていた。

 

東京都美術館「都美セレクション グループ展2121」

 3展示どれも良かったけど、展示室全体のインパクトは「暗くなるまで待っていて」が飛び抜けて強い。

 他の人はどうだか分からないが、私は美術館で映像作品を観るときに割と「様子見」してしまう。ひとつの作品がループ上映されている部屋におそるおそる入っていて(たいてい作品の途中だ)、いったん映像が一区切りするまで留まりながら、もう少しここにいて最初から観ようとか、いったん他の作品に行こうとか考えながら観てしまう、という意味だ。

 その様子見の時間を抜けないうちに、突然めまぐるしく機械の駆動音がひびく瞬間がおとずれる。展示室内にある5点の映像作品、それぞれのための映写機が駆動し、フィルムが回り、レンズのリボルバーがぐりぐりと絞られる。5点の作品は同じ皿の上のソースみたいに少しずつ交ざり合い、一つの作品のような余韻を残す。

 個々の作品だと、「版行動:映えることができない」より、何度もつっかかるピアノ演奏が記憶に残る堀内悠希《ABCの影》、

 また「体感A4展」より、展示室内にもともと設えられていた一見不思議な構造「展望台」についての検討を立て看板式でその場で読ませる、巳巳《近代建築とA4と人間をめぐる論考》が特に好き。

*1:展示されてるのは3枚だけど実際は4枚1組の作品らしい。どうして見せてくれなかったんですか!

*2:発表当時の意図にかかわらず