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了/観たものについて書く。

Noism0+Noism1+Noism2「春の祭典」(彩の国さいたま芸術劇場)

※上演の内容に言及しています。

 

 さいたま芸術劇場、大ホールは初めてだけど一階座席側壁の図形…って雰囲気が好きだ。一階後部の通路の走り方というか、バルコニー席との区切り方が、あんまり見ない感じで面白い。

 4本立ての作品構成で、一番印象的だったのが冒頭の「夏の名残のバラ」だった。

 非常口ライトから客電がゆっくりゆっくり落ちていき、舞台の上には客席の闇とは質の違う闇、なにも投影されていないスクリーンの闇があらわれる。やがて、スクリーンにはステージ下の階段裏、出番前の化粧やストレッチをするダンサーの姿が投射された。カメラに背を向けてステージに向かうダンサーの後ろ姿を眺めながら、この映像ってどこの会場の公演でも共通なのかな…?と疑問に思った瞬間、スクリーンの中にいたダンサーが、映像と同時にぽーんと舞台上に飛び出してきた。

 落ち葉が敷かれた舞台の上には、赤いワンピースで踊るダンサー(井関佐和子)と、その姿をリアルタイムにハンディカメラで追う撮影者(山田勇気)の二人きりだ。撮影者はダンサーを第三者的に追うだけでなく、時にその動きに干渉しようとする。舞台上で交じり、時に「協力」し合う両者の動きの映像的な結果は、背後のスクリーンの上で同時進行に示される。舞台芸術を映像することが考えられ続けた年にできた、結晶の大きな粒みたいだな…と感じたけど、後でパンフを確認したら、初演は2019年12月-2020年1月だった。

 上手下手から差す斜陽のような照明の中、井関氏の動きは滞空時間が長く見え、ここにある劇場の幸福が、このままずっと続くのではないかと胸を締めつけられる。

 

 今回のタイトル作品である「春の祭典」は、舞台面を大きく前方のみに切り取った状態で開始する。一列に並べられた椅子、空いていた地下鉄が急に混みだした時のように、目も合わせず縮こまり合うダンサーたち。まさかこの狭い空間のみでやりきるのか…?と思っていると、未知への怯えと共に背後を隔てていた帳が上がり、未知の舞台面が開拓される。

 ダンサーたちがおそれと共に飛び出していった舞台空間で、新たに繰り広げられる歓びの時間、そしてその後に待つ排斥。伏していくダンサーをもう一度狭く囲い直すように、舞台の四方の帳は下り、観客は透過する帳越しに斃れた身体の群れを観る。

 自分でもよく分からないんだけれど、この「春の祭典」の照明にビビってしまった。別に照明自体にビビらせ要素がある訳でなく、ダンサーたちの集団としての動きが引き立つよう、きわめて適切にデザインされていると思うんだけど、排斥する人体も倒れ伏した人体も、群として美しく見せられるし、美しく見てしまえること自体に対するビビりというか…。

 

 「FratressⅢ」はNoismに抱いていた「信仰」的なイメージのまさにそれ!という作品だった。光る砂をじゃり、と擦る音が耳に残る。

 今回の作品のうち、映像作品の「ボレロ2020」はオンラインで視聴可能らしい。コミカルでありつつ、部屋を模したスタジオの広さにこなれた動きをして窮屈に感じさせない雰囲気がよい。

https://filmuy.com/noism