Ry

了/観たものについて書く。

2022年9月の演劇(わたナラ,笑顔の砦,パチンコ(上))

◼️「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」(彩の国さいたま芸術劇場)

SNS上の言説を皮切りに、身体をめぐる「ナラティヴ=人の思考を規定する物語」に翻弄される人間の姿を描く演劇ダンス作品。

小ホールは「めにみえない みみにしたい」以来だ。すげーどうでもいいけど、観に行った同日、大ホールは大ホールで別の共催公演中だったのに加えて、大廊下に面したスタジオからはまた別の作品を準備してる気配が伝わってきて、劇場の持ってるリソース量に若干おののいた。

自分はここ数年、身体性というか身体表現の、身一つで取り組むシンプルさ、嘘がつけないものを差し出す強靭さ、動作ひとつひとつの豊かなディテール...に憧れる傾向が強くなったな~と自覚しているんだけど、本作はそういう信仰に良い意味で冷や水を浴びせられた。

主演の湯浅永麻の「身体性」は素晴らしい。奥行きが押し広げられた舞台上を自在に動き、発した台詞のニュアンスを、その身体でも事細かに拾ってみせる。

しかしそれが身体を観る快さには結びつかず、むしろ観客は常にどことなく不安を感じることになる。人前で話すとき、口はペラペラ回ってるのに、話題の芯を食ってる気がせず、喋るほどに滑ってるんじゃないかって心配になるときみたいだ。~?~?と尻上がりにぶつぎられる、半笑いとも問いかけともつかない台詞回しが、その不安を更に喚起する。

映像演劇(やそれに連なる手法)を劇場で見たのは初めてだったんだけど、予想以上にドッカンドッカン受けてて、そういう感じの受容なんだ...とちょっとびっくりした。

 

◼️庭劇団ペニノ「笑顔の砦」(吉祥寺シアター)

舞台上には横並びのアパートの部屋がふたつ。弟分たちと漁師を営む蘆田剛史と、母の介護のために部屋を借りた藤田一家。ふたつの部屋で並行して営まれる生活は、時にシンクロしながら、ついに引き返せない影響を及ぼし合う。

再見。ストーブの小さい灯りの傍ら、舞台上の人物たちが夜が明けるのを待つ重苦しさが、客席側の時間/身体感覚にも圧し掛かってくる。終わらない夜の重みに耐えかねたように降りかかる数々の出来事。偶然覗いた隣室の生活を通して、「共に生きていかざるをえないこと」を直視することになった剛史たちは、あの瞬間観客たちともシンクロしていたのかもしれない。

※11月追記 再見して一番見方が変わったのが蟹のくだりで、あれは藤田一家に「生活」を直視させられたことに対する、何か報復のようにも思えてしまうんだよな。剛史がそうした、という話ではなく、もっと大きな枠組みとして...なんだけど。

 

昨年6月も岡田利規タニノクロウだったという記事

ry-kun.hatenablog.com

 

◼️「ピピン」(東急シアターオーブ)

休止回でした。

 

東葛スポーツ「パチンコ(上)」(シアター1010 稽古場1)

「稽古場」にしつらえれた四角く小さい舞台の上、所狭しと歩き回る板橋駿谷の存在感と、その声の迫力がダイレクトに伝わってくる。正味、序盤は音響というか声のひびきの増幅はばがあまりしっくりきていなかったのだけれど(鑑賞位置もあるかもしれない)、それが最後には、床から足に伝ってくる振動も全て感じとりたくなるほど癖になった。

ラップでいうと森本華の「全部捨てろ、見てる前で捨てろ」も興奮する。身体性を疑う作品から始めた今月中で、いちばん身体に快楽した時間だったかもしれない。あと私は長い裾を取り回す動作がかなり好き。

毒や皮肉の体を取りつつ客を気持ちよくさせる一席、苦笑い忍び笑いならまだしも絶対に喝采したくないという最悪の自意識が働く。よう言うたと大笑いでもした瞬間、何笑ってんだよ演者に慰撫されるんじゃないお前も自分を差し出せという気持ちになるんじゃないか。それはそれとしてAFFノルマ達成方法はちょっと笑った。