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了 / 観たものについて書く。公共劇場が好き。

日記(2022年11月)

 数年ぶりにスニーカーを買った。

 身内は(私の目からすると)皆靴道楽の傾向があるのだが、私自身はたぶん他の人より靴を履き潰しやすい方なので、どれだけ好みのデザインでもスニーカーに一定以上のお金を払うのが怖くなってしまう。しかし、ちょうど展開中だったSnowManとPUMAのコラボで、好きなメンバーが推薦していた型が、好みの形で値段も比較的手が出しやすかったので、遅い誕生日祝いということで買った。踵が切り立った厚底で、ちょっとだけ重心が前に傾く履き心地が気に入っている。

 

 菅原直樹氏のワークショップの動画を見た。

https://youtu.be/wDlCYjMJIC4

 菅原氏は老いと演劇をテーマにOiBokkeShiという劇団(でいいのか?)を主宰しており、介護手法ー演劇手法を相互に引き合わせるワークショップに取り組んでいる。

 動画には、幻視しているものを訴えてくる認知症の高齢者(役の参加者)とどうコミュニケーションを取るか?というワークのくだりが出てくる。この中で介護職員役の参加者が、椅子に座っている高齢者役の懐にスッと屈み、視線の角度を合わせてすげー自然に同じ「もの」を見ようとしていたのが印象的だった。「目線の高さを揃える」ことだけが「目線を合わせる」ことではないと、初めて気がついた気がする。

 

 生鮮な感覚や体験を文章記録に起こすのは、体得的なものごとの表面を文字で覆いつくして、別のものに変質させようとする行為のように思われる。世間における批評がものごとの内部に切り込み、ものごとの新たな断面を見せる行為なのに比して、あくまでも自分の書くものにおいてのみの話である。

 小林銅蟲めしにしましょう』8巻116P(豚の丸焼きの回)に「皮の組織を泡立ったような焼き具合にして」という表現があるが、イメージはまさにそれだ。体験の表面に油を塗布して揚げ焼きにしている、美術館で写真を撮りまくるのが舐められる行為であるならば、私も同様に舐められて然るべき行為をしているなと思う。