かつて荒川河口の黒い船と称された水上劇場が一夜にしてその姿を消したのち、誰もがその劇場の主にして「最後の劇場王」藍原いばらが再び表舞台に立つことを期待したが、結局彼の人が現れることはなかった。まだ劇場禍の爪痕が根深く残る東京に突如台頭した藍原は、売りに出されていた廃劇場を買い戻して掌中に収めたのを皮切りに、都市を這いずり回っては少しずつ書き換える泥のように、新たな劇場文化の基をこの土地に刻んでいった。伝説的存在である水上劇場の杮落としをもって絶頂を迎えた藍原の仕事に、畏敬の念を表する劇場人はいまだ多い。フェイクファーの外套を着込み、総指にイミテーションの指輪を嵌めた豪奢な風体だったと伝えられている藍原だが、一方でその人物像が記録された資料は散逸しており、経歴にも不明な点が残されている。現存する数少ない証言において、決まって語られるのはその鋭い眼光である。常に舞台を炯炯と見つめていたという藍原。彼の人を生涯にわたって執念深き劇場運営に駆り立てたのは、果たして何であったのだろうか?本章ではその謎に迫りたい。(『評伝集 劇場史を築いた先人たち』「第9章 藍原いばら:最後の劇場王」より冒頭部引用)
「極楽会館」と称されるその小さい劇場は、隅田川のほとり、高架道路の縁に埋もれるようにして立っていた。通りに面してこそいるものの、最大二百席強の客席を抱えるのみの築容は古めかしく、ひっそりとした佇まいで、…だから通りすがりであれば、その建物の内側に、外観から想像されるよりも遥かに豊かな空間が折り畳まれて収まっていることに気がつかない。そんな劇場の正面に設えられた円筒型のチケットオフィスの中から、一人の青年が向かいの通りを眺めていた。青年は、綿入れ半纏のように膨らんだダウンジャケットを半身に引き被っていた。その身の丈に合わぬ大ぶりのダウンが、こぢんまりとしたオフィスを内部からぎゅうぎゅう詰めに圧している。ガラス越しに伝わる外気の冷たさに青年がふと息を吐いた頃、背後の戸が恭しく叩かれた。「いばら様。」扉を開けたのは、黒いスーツ姿の鶴のような女だった。名を新木場と言う。「失礼いたします。…また足元のヒーター点けてないんですか。ここで仕事する時は点けてくださいねって言ったじゃないですか。」「嫌よ。裾が焦げそうだもの。」青年…この極楽会館の主たる藍原いばらは、うんざりした顔で振り返るとそう応えた。
新木場はいばらの態度を意にも介さず、どこからか取り出した魔法瓶の蓋を開け、これまたどこからか取り出した茶器へと中身を器用に注ぎ込んだ。あっという間に紅茶が供される。手際の良いサーブに身を任せるままだったいばらは、オフィス内に広がった温かい香りにはっと引き戻されて、遅まきながら短く抗議の声を上げた。「ちょっと!」「ここは私と交代して、そろそろ休憩されませんか?そうそう、事務室にパンがありますよ。向こうの新しいパン屋さんの。ちゃんと賽の目に切って。」「…この後頂くわ。ありがとう。」手元の書類を脇に寄せ、紅茶をちびちび口に含みながら不承不承に頷くいばらを認めて、新木場は心底嬉しそうに微笑む。たまに外出した時には街のパン屋でパンを買い込み、それぞれ賽の目状に切り揃えてから家族の食卓に出すのが実母の習慣だった、といばらがふと漏らしたのを聞いてから、新木場はそれを頑なに守っていた。新木場がいばらの生家について唯一知っている事実であった。自らが仕える前のいばらのことを、新木場は何も知らない。そもそも藍原いばらと新木場の出会いは、数年前…東京にて未曾有の劇災を引き起こした、かの劇場禍よりも前まで遡る。
新木場…当時は別の名を名乗っていた…は北国の豪商・藍原の傘下にある山車囃子保存会の若衆だった。若手随一の踊り手として嘱望されていたが、今となっては昔の話である。いばらは当時の藍原家当主、「大お嬢様」と呼ばれていた老女が晩年に迎えた養子だった。古ぼけた外套を突っ掛けて屋敷の戸口に立ついばらの姿を、新木場は山車の上から眺めていた。生涯婿を迎えなかった「大お嬢様」に突如現れた跡継ぎの存在に、お偉方は皆大騒ぎした。山奥の寒村の生まれとも、場末の劇場で働いていたのを拾われたとも噂されたたいばらだったが、その素性は最後まで誰も知らないままだった。大お嬢様の没後、いばらは藍原の家を離れた。手切れ金を渡されての事実上の放逐という噂だった。下部組織の若造にまで事情が流れてくることはなかったが、それでも前当主が連れ込んだよそ者が本家から煙たがられていたことは察せられた。いばらの行方は杳として知れなかったが、ある時、どうやら伝手のある劇場を頼って東京に出たらしいという噂が流れた。それを聞きつけた新木場は同日のうちに保存会に脱退を請願、後を追って単身上京し、藍原いばらへの心酔を証すために名を新木場と改めたのだった。
「そういえば、いばら様が別の劇場を仲介してくださったあの劇団。無事に千秋楽を迎えたみたいですよ。」懐からいばらの手帳を取り出し、中身を確かめていた新木場がふと思い出したように言った。「ああ、あの揉めかけた。舞台で水を使うプランがあるなら最初に言ってほしいものだわ。」「ウチは水気厳禁ですから、泣く泣くお断りしたんですものね。」「別に。」「そんな、こっそり気にかけていらしたでしょう?」「ボクはこの劇場のお客様で手一杯よ。舞台を借りるお客様も、チケットを買うお客様もね。」ふん、と鼻を鳴らす。いばらが件の劇団の初日に隠れて出掛けていったのを新木場は当然把握しているが、何も言わなかった。更に手帳をめくる。「それから面会のご希望が。七福の文化センターから」「『公共』の人間がボクに?珍しいわね。しかも都外。」「あそこですよね?今は分かりませんが、初代芸術監督が『黒崎の残党』だった…」その瞬間、いばらの目の色が変わった。「いばら様?」「…なんでもないわ、ぜひ取り次いで頂戴。分かってるだろうけど、会食はお断りして。」「かしこまりました。」控えめに目礼する新木場を後目に、いばらはチケットオフィスを後にした。
事務室は舞台の真裏、劇場の正面とは反対側に位置している。人手が足りぬこのご時世、チケットオフィスと事務所とが離れているのはなかなかに不便だが、古い劇場ゆえに仕方がない。オフィスを後にしたいばらは、ロビーを突っ切って客席から舞台まで点検しながら事務所に向かうことにした。極楽会館のロビーは猫の額、とまでは言わずとも、収容人数を鑑みるとやや窮屈な印象だが、その一角にはチラシ棚がひとつ置かれていた。いばらは棚の前で足を止め、チラシに欠品や折れ曲がりがないのを確かめる。チラシ棚は小さく、極楽会館に宛てて山のように届く公演チラシをすべて納めるのには不相応であったが、その代わりによく整頓されていた。かつて館内の什器を新調しようという話が持ち上がった時、いばらはカタログに載っていたもっと大きな棚に買い替えたかったのだが、新木場にロビーをこれ以上手狭にしては経営にも関わると反対されたのだった。最終的に新木場の言い分に正当性を認める形になったが、いばらは密かに当時のことを根に持っていた。ひとしきりチラシを並び揃えるのに満足すると、いばらはようやく劇場の正面に陣取る重々しい客席扉の前に立ち、その手を掛けた。
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