Ry

了 / 公共劇場が好き

【 フィクション】河口に至る(仮) ①

 かつて荒川河口の黒い船と称された水上劇場が一夜にしてその姿を消したのち、誰もがその劇場の主にして「最後の劇場王」藍原いばらが再び表舞台に立つことを期待したが、結局彼の人が現れることはなかった。まだ劇場禍の爪痕が根深く残る東京に突如台頭した藍原は、売りに出されていた廃劇場を買い戻して掌中に収めたのを皮切りに、都市を這いずり回っては少しずつ書き換える泥のように、新たな劇場文化の基をこの土地に刻んでいった。伝説的存在である水上劇場の杮落としをもって絶頂を迎えた藍原の仕事に、畏敬の念を表する劇場人はいまだ多い。フェイクファーの外套を着込み、総指にイミテーションの指輪を嵌めた豪奢な風体だったと伝えられている藍原だが、一方でその人物像が記録された資料は散逸しており、経歴にも不明な点が残されている。現存する数少ない証言において、決まって語られるのはその鋭い眼光である。常に舞台を炯炯と見つめていたという藍原。彼の人を生涯にわたって執念深き劇場運営に駆り立てたのは、果たして何であったのだろうか?本章ではその謎に迫りたい。(『評伝集 劇場史を築いた先人たち』「第9章 藍原いばら:最後の劇場王」より冒頭部引用)

 「極楽会館」と称されるその小さい劇場は、隅田川のほとり、高架道路の縁に埋もれるようにして立っていた。通りに面してこそいるものの、最大二百席強の客席を抱えるのみの築容は古めかしく、ひっそりとした佇まいで、…だから通りすがりであれば、その建物の内側に、外観から想像されるよりも遥かに豊かな空間が折り畳まれて収まっていることに気がつかない。そんな劇場の正面に設えられた円筒型のチケットオフィスの中から、一人の青年が向かいの通りを眺めていた。青年は、綿入れ半纏のように膨らんだダウンジャケットを半身に引き被っていた。その身の丈に合わぬ大ぶりのダウンが、こぢんまりとしたオフィスを内部からぎゅうぎゅう詰めに圧している。ガラス越しに伝わる外気の冷たさに青年がふと息を吐いた頃、背後の戸が恭しく叩かれた。「いばら様。」扉を開けたのは、黒いスーツ姿の鶴のような女だった。名を新木場と言う。「失礼いたします。…また足元のヒーター点けてないんですか。ここで仕事する時は点けてくださいねって言ったじゃないですか。」「嫌よ。裾が焦げそうだもの。」青年…この極楽会館の主たる藍原いばらは、うんざりした顔で振り返るとそう応えた。

 

 新木場はいばらの態度を意にも介さず、どこからか取り出した魔法瓶の蓋を開け、これまたどこからか取り出した茶器へと中身を器用に注ぎ込んだ。あっという間に紅茶が供される。手際の良いサーブに身を任せるままだったいばらは、オフィス内に広がった温かい香りにはっと引き戻されて、遅まきながら短く抗議の声を上げた。「ちょっと!」「ここは私と交代して、そろそろ休憩されませんか?そうそう、事務室にパンがありますよ。向こうの新しいパン屋さんの。ちゃんと賽の目に切って。」「…この後頂くわ。ありがとう。」手元の書類を脇に寄せ、紅茶をちびちび口に含みながら不承不承に頷くいばらを認めて、新木場は心底嬉しそうに微笑む。たまに外出した時には街のパン屋でパンを買い込み、それぞれ賽の目状に切り揃えてから家族の食卓に出すのが実母の習慣だった、といばらがふと漏らしたのを聞いてから、新木場はそれを頑なに守っていた。新木場がいばらの生家について唯一知っている事実であった。自らが仕える前のいばらのことを、新木場は何も知らない。そもそも藍原いばらと新木場の出会いは、数年前…東京にて未曾有の劇災を引き起こした、かの劇場禍よりも前まで遡る。

 

 新木場…当時は別の名を名乗っていた…は北国の豪商・藍原の傘下にある山車囃子保存会の若衆だった。若手随一の踊り手として嘱望されていたが、今となっては昔の話である。いばらは当時の藍原家当主、「大お嬢様」と呼ばれていた老女が晩年に迎えた養子だった。古ぼけた外套を突っ掛けて屋敷の戸口に立ついばらの姿を、新木場は山車の上から眺めていた。生涯婿を迎えなかった「大お嬢様」に突如現れた跡継ぎの存在に、お偉方は皆大騒ぎした。山奥の寒村の生まれとも、場末の劇場で働いていたのを拾われたとも噂されたたいばらだったが、その素性は最後まで誰も知らないままだった。大お嬢様の没後、いばらは藍原の家を離れた。手切れ金を渡されての事実上の放逐という噂だった。下部組織の若造にまで事情が流れてくることはなかったが、それでも前当主が連れ込んだよそ者が本家から煙たがられていたことは察せられた。いばらの行方は杳として知れなかったが、ある時、どうやら伝手のある劇場を頼って東京に出たらしいという噂が流れた。それを聞きつけた新木場は同日のうちに保存会に脱退を請願、後を追って単身上京し、藍原いばらへの心酔を証すために名を新木場と改めたのだった。

 

 「そういえば、いばら様が別の劇場を仲介してくださったあの劇団。無事に千秋楽を迎えたみたいですよ。」懐からいばらの手帳を取り出し、中身を確かめていた新木場がふと思い出したように言った。「ああ、あの揉めかけた。舞台で水を使うプランがあるなら最初に言ってほしいものだわ。」「ウチは水気厳禁ですから、泣く泣くお断りしたんですものね。」「別に。」「そんな、こっそり気にかけていらしたでしょう?」「ボクはこの劇場のお客様で手一杯よ。舞台を借りるお客様も、チケットを買うお客様もね。」ふん、と鼻を鳴らす。いばらが件の劇団の初日に隠れて出掛けていったのを新木場は当然把握しているが、何も言わなかった。更に手帳をめくる。「それから面会のご希望が。七福の文化センターから」「『公共』の人間がボクに?珍しいわね。しかも都外。」「あそこですよね?今は分かりませんが、初代芸術監督が『黒崎の残党』だった…」その瞬間、いばらの目の色が変わった。「いばら様?」「…なんでもないわ、ぜひ取り次いで頂戴。分かってるだろうけど、会食はお断りして。」「かしこまりました。」控えめに目礼する新木場を後目に、いばらはチケットオフィスを後にした。

 

 事務室は舞台の真裏、劇場の正面とは反対側に位置している。人手が足りぬこのご時世、チケットオフィスと事務所とが離れているのはなかなかに不便だが、古い劇場ゆえに仕方がない。オフィスを後にしたいばらは、ロビーを突っ切って客席から舞台まで点検しながら事務所に向かうことにした。極楽会館のロビーは猫の額、とまでは言わずとも、収容人数を鑑みるとやや窮屈な印象だが、その一角にはチラシ棚がひとつ置かれていた。いばらは棚の前で足を止め、チラシに欠品や折れ曲がりがないのを確かめる。チラシ棚は小さく、極楽会館に宛てて山のように届く公演チラシをすべて納めるのには不相応であったが、その代わりによく整頓されていた。かつて館内の什器を新調しようという話が持ち上がった時、いばらはカタログに載っていたもっと大きな棚に買い替えたかったのだが、新木場にロビーをこれ以上手狭にしては経営にも関わると反対されたのだった。最終的に新木場の言い分に正当性を認める形になったが、いばらは密かに当時のことを根に持っていた。ひとしきりチラシを並び揃えるのに満足すると、いばらはようやく劇場の正面に陣取る重々しい客席扉の前に立ち、その手を掛けた。

 

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2026年6月/補遺

映画「マンダロリアン・アンド・グローグー」

 スターウォーズは確か最初の3作を見たことがあるぐらいで、積極的には触れてこなかったのだが、みどりいろのかわいこちゃんが流石に気になったので、観た。

 ぷすぷす鼻音を鳴らす勇敢なグローグーは勿論だが、ロッタ・ザ・ハットもまた魅力的なキャラクターだった。筋骨隆々の快男児でありながら、出自がその人格に陰りを落とす任侠者とは、えげつないタイプの人気を偲ばせる造形であることだよ。
 惑星シャカリでの冒険が、スターウォーズに期待していなかった方向性で面白かった。社会統制の一方で大衆文化ばかりが爛熟した大都市を舞台に繰り広げられる、犯罪・肉弾戦・パニックの連続に高揚する。

 自分は映像表象にマジで明るくないので完全な印象論だが、航空機による空爆が味方サイドの行為として描写されているのに相対すると、オッ「アメリカ」じゃーん。という感想を抱く。

MRI検査を受けた

 経緯は省くが、はじめてMRI検査を受けた。検査着に着替えるほどでもなく、ほぼ来院した格好のまま機械に通されたので、もちろん検査前に確認したものの、横たわりながら急に不安になってこっそりポケットのあたりをまさぐる。出先で家の戸締まりを疑うのと同じ心持ちだ。

 閉所が苦手な場合は検査を避けた方がいいという話はよく聞くが、自分は大丈夫っしょと楽観的に臨んだものの、実際のところ三半規管がバカ弱い人間には、身じろぎできない状態で後頭部が小刻みに揺さぶられるのがなかなか辛く、予想以上に堪えた。退院後よろよろと入った店で、キノコと豚肉の澄んだスープを飲んだ。おいしかった。 

2026年6月/プリパラ スペシャルイベント「ときをこえてみ~んなでレッツ!プリパライブ★」(立川ステージガーデン)

立川ステージガーデンに行った

 隣接する広場より連なるホールの屋根には「階段のための階段」と呼ぶべきカスケードが設けられており、入場前に意味なく昇り降りした。立川ステージガーデンまで来るのは初めてだ。駅からホールへと向かう幅広い街路の起点、すぐ脇の生け垣に遊具めいたカラフルなフェンスを見つけたものの、あれは…岡崎乾二郎が作った…一時期撤去するかで揉めてたやつ…*1しか出てこなくて詰む。

 プリティーシリーズから、特に「アイドルタイムプリパラ」(2017-2018)「アイドルランドプリパラ」(2021-)の2作品を取り上げるライブイベント。

 このような機会であればこそ、アイパラの主人公である夢川ゆいを始めとする同世代全てのキャラクターが一同に会することを期待していた気持ちも勿論あったが、他のキャラクターとの兼役*2ではない、それぞれのアイドルとしてのキャストのステージを盛りだくさんに観ることができ、過去にプリティーのライブへ行った中でもトップクラスにハッピーな体験だった。

イントロ驚き屋さんになった

 とりわけ鮮烈であったのはセットリストの妙である。

 プリティーのライブでも今回は特に、様々な兼ね合いからセトリに組み込まれなかった代表曲・人気曲が多かったように思われる。

 しかしそれ以上に、主題歌カバーや筐体曲のピックアップ、今回は歌わないと思い込んでいた曲における(納得感ある)代打メンバー登場、なにより公式リミックスアルバムである「ULTRA MEGA MIX COLLECTION」バージョンでのステージ披露など、全体に新鮮な驚きに富んだ構成だった。フレンドシップツアー(2019)に連なるかつてのプリパラライブが、シリーズ終了後の新曲連発によってアイドルたちを沸かせていたのとも異なる驚きである。

 最後の全体曲もワクワクO'clock だった。アプリを通して筐体曲の再評価が進んでいるんだな〜と思うと、(言うて自分自身は当時の筐体をやり込んでいた訳ではないが)嬉しい。ところで虹色にの後輩のピンと角が張った振り付けが好き。

男プリ

 自分は、男プリ連中の活躍と男プリ世界の拡張それ自体は嬉しい一方で、男プリのディテールが描き込まれることで(もちろん建て付けとしては最初から存在していた)性別二元的なプリパラ像が強まっていくようにも思えて複雑だったのだが、今回のライブはプリパラ(女子プリ)と男プリとのステージのバランスが取れていて、かつその調和を(言葉通りハックしながら)越境していくソロアイドルとしての紫京院ひびきの姿もあり、かなり良い感じだった。

 好きにしてIIZEのイントロが聞こえたので、ペンライトの色をポチポチ変えてから顔を上げたら、もうアサヒがそこに立っていて悲鳴が出た。ショウゴの「他のヤツはダメ」は(様々な解釈があろうが)そんなにメロに振らずに頼もしいニュアンスで、ほっとして笑けてしまう。

 ダークナイトメアの曲は倍で取りたいし、危険だからようやらないけど許される環境ならヘドバンもしたいよ。ウシミツが舞台のウィッグを彷彿とさせる金髪でまた驚く。

 チョコレートアイスクリーム・トルネードはライブ初披露時(2023年ウィンターライブ)の残酷げなライティングの印象が強いままだったので、無事客降り枠として諸アイドルがワーワー盛り上がっている光景に嬉しさを覚える。「光を蹴散らして天を撃ち落としてくれ」の直前で膝からすとーんと落ちるのがカッコいい。

タイムガーデンブルーミングコーデ

 がプリティーシリーズの現実実装衣装で一、二を争うくらい好きだ。たくさんの花が実際に縫い付けられていて、踊るとふわーっと広がる様子が可愛い。

 プリパラを多声的な空間と形容した*3ファララがずっと印象に残っていて、そのファララが他のアイドル達と共にサンシャイン・ベルを歌う姿にしんみりしてしまった。しんみりし過ぎて、ファララのエンディングサインに添えられた丁寧な振り仮名にも感じ入る。

幸多みちるさん

 自分はプリパラでいちばん好きな台詞が「そしてわらわは夢そのもの」なんだけど、M1のJust be yourselfがあまりにも幸多みちるFanCamの位置に来て大いに動揺した。止め絵のあるダンスが好きだ。

 プリティーリズムカバーであるStarlight☆Heartbeatの振り付けは、気品あるお姫さまが城を抜け出しての大冒険感が印象的だ。ガラスの靴を脱ぎ捨てたり、フリルのスカートでくるりとターンしたり。ところでマイ☆ドリームミルキーコーデのチェック柄部分の生地にラメが入っていたことに今回はじめて気がついた。

 おそらく今回初披露のGOスト♭コースター(Y&Co. Dance Mix)は、タクト風のマイクを手に取っての横座りでスタンバイしていた瞬間からリアルに頭が破裂しそうだった。ありえんほど音楽に対して誠実な解釈のダンスだったと思う。アイドル*4の心はめちゃくちゃ。

 毎回主人公キャストに任されることが多い最後の挨拶をみちるが担当し、デビューしたばかりだったという放映当時のお話をしてくださった様子も思い出深い。

余談

 ところでバックダンサーの方に明るい夢川ヘア(ハーフツイン)でめちゃくちゃダンスが上手い方がいた。フリルの裾をたなびかせた躍動的なターンや、上体を反らして首を回す可動域の広さなど、動作のいちいちが魅力的。Shooting STARって一条シンに割り振られる振り付け過ぎる。

*1:岡崎乾二郎《Mount Ida ─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》(1994)

ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去問題とはなんだったのか|美術手帖

*2:それはそれでプリティーシリーズの楽しさではあるのだが

*3:2019年「プロミス!リズム!パラダイス!」内の朗読劇中に「プリパラは色んな声が聞こえる」という趣旨の台詞があった。

*4:プリパラ世界においてはオタクも誰しもがアイドルである

2026年5月/ 「“C4” with Phatworld & Spongebob Squarewave」(秋葉原MOGRA)

 その日は一日中、秋くらいに寒かった。
 猥雑かっこよいダンスミュージックのパーティー*1「C4」による、Sheffield Basslineの大家Phatworldと、彼の別名義Spongebob Squarewaveの来日アクトを迎えての公演である。
 シェフィールドベースラインなるものを初めて知った数年前、過去の来日時*2のフライヤーを見つけて、Phatworldって日本来てたんだ。と羨ましく思った覚えがある。ので行った。

 当該のPhatworld氏はというと、Talk To Meなどの代表曲を皮切りに滑り出したのちは、何をしても場がわあっと盛り上がって、新しい曲を掛けるごとに波が満ち引くようだった。炎上するミニオン。黒目がちの大きな目をした女の人。やはり本人が掛けるPhatworldは鳴りが違う、というのは実際のところ幸福な思い込みのはずだが、ともあれMOGRAの立体的な音響のつくりが好きよ。

 ゲストの出番を軸として、前半は基盤からぐにぐにと軟らかく揺動し、一方で直後は掘削するように硬く、共通して暴力的で、総じて良かった。Might Be Dub でガッシャガッシャ踊るのをやってみたかったので嬉しい。Mr. WolfBaianá (camoufly Edit)*3といったリズムパターンを一気呵成に畳み掛ける時間もあって、それも楽しかった。

 後半、ハッピーハードコア?レイブコアと呼ぶのだろうか、スピーカーから体表に伝わるボコボコした振動と、すぐ周囲で滾々と湧き上がる歓声が心地よく、…決して褒められた話ではないのだが…、図らずしてひととき睡魔に呑み込まれかけた。あれだけの騒ぎの中で、本当に?

*1:正確なパーティーコンセプトについては主催者によるSNS投稿を参照のこと。https://https://x.com/nizikawa/status/2058139241276981712

*2:2018年の「EPITAPH」(Glad,LOUNGE NEO)

*3:おそらく。エディットが同定できたこと一度もない。

2026年4月-5月/補遺

佐原

 千葉県香取市の佐原に行った。

 佐原駅の北口には、文化会館や図書館、公民館、体育館といった公共施設機能が集積していて、皆お揃いの赤い外壁が連なる姿はさながら砦のようだったが、それぞれ改修工事に入ったり別の場所に移転したりで、今は体育館だけが開館しているようだった。

 利根川沿いにある道の駅に立ち寄る。出先の産直市場や道の駅でテンションが上がる年齢になった。パックにまるまると詰まった柏餅に心を奪われながらも、本命であった有名な本みりんを買う。あんまり嬉しくて、ときどき瓶を掲げて眺めてしまう。

 佐原の町並みは風通しが良かった。伝統的建造物群保存地区の近くに位置していた水郷佐原山車会館を見学する。大人形を載せた山車を曳き回す「佐原の大祭」の博物館で、展示室そのものが巨大な山車蔵も兼ねている。

 展示室は雛飾りの匂いがした。樟脳かナフタレンの匂いだ。大人形を載せた山車をそのまま格納するために天井は高く、壁は鏡張りになっていて、大人形にひとりきり見下ろされながら、山車の周りをぐるりと巡ることができた。

 電線の普及により、電線に引っ掛かる大人形ひいては山車文化の存続が危ぶまれた時代と、その危機を回避した秘策を語るキャプション。この一角に限らず全体的に、水運業と醸造業に支えられた町人自治の精神に対してとりわけ熱と誇りが感じられて、好感が持てる展示だな~と思う。

 しかし、何よりびっくりしたのはビデオシアターだ。佐原の大祭を中心とする香取市の歳時記を活写した、20分ほどの教育映像が一定時間に上映されるのだが、その映像が予想していなかった方向にリッチだった。

 分かりやすく高画質であったり、最新の撮影技術が見て取れるという訳ではない。しかし、三面に分割されたモニター*1をフル活用して、あるシーンではそれぞれ複数角度からの視点を映し、かと思うと画面を連結させて大パノラマを表現し、その移行過程にはタイミングの絶妙な揺らぎもあり…と、全編に渡って変化に富んだ構成的な映像を組んでいる。

 モニターかスクリーンが揃う環境でないと他の場所での上映も難しいだろうし、その意味でも贅沢だ。ところで「爛熟した町人文化」という言葉が出てくると無条件で嬉しくなる、好きな言葉だから。

 成田線は一本逃すのが命取りである。まんまと駅付近で踏み切りの音を聞き、時間を持て余して入った公共施設のカフェで焼き芋の甘酒を飲んだ。おいしかった。

 

江戸東京博物館

 ことし3月末にリニューアルオープンを迎えた江戸東京博物館に行った。
 ゴールデンウィークなのもあって館内は混雑していた。展示室の最初に架かる日本橋を渡り、新演出の白く重なるのれんをくぐった途端、前をひしめく人・人・人を目の当たりにし、軽く絶望感を味わう。

 自分が事前に確認していたメディアでもプッシュが凄かったもの。再び東京を代表するモニュメントに押し上げたいという意志を感じる。
 施設改修を中心としたリニューアルにおいて、展示にも数々の更新点があるものの、その多くが演出的要素で大きなストーリーラインに関しては殆ど変更ない印象。ただし前回訪問時の朧げな記憶に依拠しているので、休館直前にも記録を取っておけばよかった。
 常設展示はおおまかに「江戸ゾーン」と「東京ゾーン」に分けられている。江戸ゾーンにおいては、我が身に引き付けて興味を惹きやすい金銭事情の展示が好き。銭100文に換算した生活品の物価に、あれそれは現代より相場が高いなどと友人と言い合う。

 町人の家計簿を示した円グラフにおいて大きな割合を占める「塩・醤油・油・炭」。それぞれ重要度が高いものとはいえ、食費の一部と光熱費が同項目計上なのはいかなる意図によるものなのか?大好きな発禁書リストのパネルも健在でニコニコする。
 なにより、「江戸と結ぶ村と島」の章がしみじみと良かった。おそらくリニューアルに合わせてエリアの中央に新設された水盆には、材木や紙、魚や野菜、塩、油、炭、絹や綿…と、周辺諸地域から必需品を集積せんとする都市の物流が映される。

 取り囲むパネルは、例えば河川交通、周辺村落、島嶼部、そして現代的感覚からしても長距離に渡って整備された上水道などの様相を描く。都市文化が周縁あって成立していると示すことは誠実であり、一方で都市中心的な語りに周縁を否応なく巻き込むことでもあり。
 東京ゾーンではビゴーの風俗画が印象的だった。高校の歴史便覧に載っている風刺画で有名な画家だが、あの見覚えのあるカリカリした細い線で描かれた、毒のない、しかし克明な市井の人々の生活風景にほっと息を吐く。夢の島についての展示があると必ず張り付いてしまう、好きな土地だから。

 寄贈収蔵品展「市民からのおくりもの」も、数年貯めてたから、という訳ではないだろうが見応えがあった。落語家が自分の登場する新聞記事を集めたスクラップブックなど興味深い。

 

成田空港空と大地の歴史館

 新東京国際空港の名称で1978年に開港した成田空港と、その建設をめぐり展開された反対運動の歴史を伝える博物館。千葉県芝山町に所在。

 公共事業と地域社会との合意形成にまつわるミュージアムであるという話を聞き、行った。関係があるのかは分からないが、空港が近づいてきた辺りから車窓に見えるオオキンケイギクが明らかに増え、おお。と思う。

 歴史館は、成田空港問題を「ボタンのかけ違い」によって起きたものだと表現している。その言葉に全ての原因を回収することはもちろん危険だろうが、公共事業にあたって行われた手続きがもっと違っていれば、地域には異なる未来が待っていたのかもしれないという遺恨は、大規模であれ小規模であれ、各地で爪痕を残している。

 あまりに激化し、今でも全利害関係者の合意には至っていないという成田空港問題だが、ミュージアムという形式で負の記憶の継承が叶ったことは重要だろう。「正しい歴史」から切り離された苦いエピソードに留めることなく、現代の我々にとっても同時代的/同空間的リアリティのある問題意識を共有しようとしている。

 それはそれとして、展示資料の選定や展示パネルのミクロな表記などに、公立博物館とはまた異なる...例えるならば、副作用を見越した上でそれでも強い薬を用いるような…展示観が見られて、多少動揺する。キャプションの上からシールが貼り直され、開館後から随時更新されてきたのだろうと想像できる箇所も多い。運動初期に行われていたという「一木運動」「一坪共有地運動」の展示などは、制度の中にあって、時にその輪郭をハックしながら抵抗を続けるやり方として、素朴に感銘を受ける。

 展示室内に置いてある冊子「成田空港問題シンポジウム記録集」に引き込まれる。数回にわたり、あらゆる論点をもって膿を出しきらんとばかりの各主体の粘り強さに驚嘆するが、そのような機会が設けられることが大抵「事後」になってしまうことを痛ましくも思う。

*1:この時点で既に特殊ではある。現在の映像(2010年以降制作と思われる)より前にはどんな映像が放映されていたのか?

2026年5月/梅田哲也「空洞」(座・高円寺)

※上演内容に触れています。

 

 座・高円寺(杉並区立杉並芸術会館)を、開館時より17年間の記憶と共にめぐるツアー型演劇。

 観客は誘導に従って座高の館内を進む。そのルートは本来観客が往来しないエリアも経由しており、言うなれば「バックステージツアー」のような建て付けだ。しかし、進む先々に「場面」が存在し、そこに付随する台詞があり、身振りがあり、読み取るべき演出がある。未知の体験ながら、身体を通過していく出来事をうまく呑み込めないまま、呑み込めないなりにアワアワ先に進んでいくような観賞心地で、かなり良かった。

 断片的に示された場面、...例えば搬入用エレベーターの内部から覗いたフロアの光景が、先に進むことで突然繋がっていく。同じ道行を繰り返し、時間をずらしてなぞっていくという構造において、ツアー型であることに必然性が伴う作品だ。そして、全てが終わった退場後に改めて目の当たりにすることになるのだが、マジで厳密に設計された作品でもある。

 前述の通り、楽屋やキャットウォークをはじめ、例えば稽古場や衣装室、果ては事務室(!)まで、劇場内部の非公開空間へと分け入っていく本公演だが、個人的にいちばん印象に残っているのは、その気になればいつだって立ち入れたはずの駐輪場だった。そこに駐輪場があると気づいたことさえなかった。座高はあまりにも大通りに面しているから、他の角度から見ようと試みさえしなかったことを、この期に及んで初めて思い知った。劇場の模型を矯めつ眇めつ回転させながら、孔という孔に懐中電灯の光を射し込ませるのと同じ意味をもって、駐輪場を見た。

 2026年4月より座・高円寺の運営主体は新たな指定管理者へと交代した。発表時から大きな注目を集め*1、本公演のステートメントにおいても自覚的に言及されているトピックだ。

 杉並区在住者でも、座高の頻繁な利用者でもない自分には、指定管理者の交代による劇場の変化(あるいは不変)を観測することは難しいし、それをしたり顔で記述することもないだろう。それでも、例えば2階のカフェメニューにラザニアが続投されていたりとか、そういう些細なことに、(無用な勘繰りの反動としての)安堵を覚えたことは否めない。なお、この文章は前・現指定管理者に当たる各主体に対する支持/不支持の表明を意図しないことを強く書き添える。

 鳥が果実を食べ、種を運び、その種が木を成し、木の下に人々が集まる。公演の始まりと終わり、2回のモノローグで描かれる光景だ。鳥とは、もちろん普遍的象徴だが、同時に前指定管理者の運営下にて多用されてきたモチーフであった。このモノローグもまた自分にとってのラザニアである。

 ところで例の駐輪場にて提示されたローズマリーとその後について、イマジナリー食通が趣向を凝らしたかのような供され方に怯み、しばらく頭がローズマリーでいっぱいになってしまった。

*1:エコーチェンバー