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観たものの話をしている

2022年5月前半

・ロロ「ロマンティックコメディ」(東京芸術劇場/配信)
 劇評と公演リード文読んで面白そうだな~と思って調べたらその前日が千秋楽だったので、配信あって本当に助かった。
 数回観るうちに、人の行為、他者とのやりとりの対価が年月を掛けて支払われていくことが「愛とか恋とは違う形」のロマンティックなのかなという感想になった。
 「どうして人はいつ思い出すのか自分で決められないんだろうね!」、聴いた瞬間これ観てよかったな!と思うくらい力のある台詞だ。

・ヌトミック「ここ!」(中池袋公園)
 TACTフェスティバルプログラムの路上劇。
 四方を建物に囲まれた広場にして、池袋の再開発の現場でもある「ここ」に、迷子のアナウンスとコミュニティラジオが、いくつかの語を起点にリンクしながらこだまする。
 写生大会で隣になった人のスケッチを覗きこんだらめっちゃ上手かったみたいな印象の作品だ。横目に通りすがっていったり途中から足を止めたりして、全容を把握しえない観衆が当然想定される中、休日の雑踏とごく自然に繋がっていく、爽やかなパフォーマンスが提示される。一方で一見爽やかなものとして手渡されたものを、本当にそうなのか首を捻りながら見つめるような観後感もある。

・惑星ザムザ
 順路の上下昇降を繰り返して咀嚼するくらいに楽しみつつ、展示として出力を調整された場所ぢからに対する逆張り精神も発揮しながら観た。
 展示空間との関係という意味では、会社時代の什器が残された一室の中、当時のしつらえの一部のように置かれた石曽根和佳子作品のありかたがいちばん好きだったかもしれない。(布の継ぎ接ぎ=テキスト未満?)
 女性器の形これがいいですに思えてくる百瀬文《Born to Die》、必ずしもひとつらなりでない過去の思い出をを繋ぎ目を感じさせず語る青柳菜摘《孵化日記旅行》も印象的。宍倉志信《P.S.Installer》は、こと今回の展示立地に限るならば、無言で展示品の周囲を取り囲む他の来場者まで含めて独特に成立する作品だ...。

・鬼頭健吾《Lines》、山本卓卓「オブジェクト・ストーリー」(神奈川芸術劇場)
・「Under35 2022」(BankART)
 タテに構造なすKAATらしくアトリウムの高さに降り注ぐ色、そしてその階層の上下移動を、建物に散らされた小さな「物」語が埋めていく。館内をあちこち探すうち、フツーの掲示や公共施設らしい備品ラベルさえも疑り深く見てしまう視線の倒錯が起きるのが面白い。
 BankARTのU35はユ・ソラ、小野田藍の会期だった。
 ユ・ソラの作品は、日常生活の何気ない光景が密かに隠し持つ情報量を、刺繍という手法によって引き出しているようで、特に《机の下のもの》はふっくらした布を支持体として、配線コードのまるみを丁寧な線で縫い出している。コードの曲線性に着目した作品すき。
 それから、小野田藍による美術批評ペーパー、《アート・ナウ・ジャパン》がかなりの衝撃だった。展覧会に置いてあるファイリングノート系の展示物、全部読めない!諦めよう!になりがちなんだけれど、これは本当に手に取ってよかった。内容の面白さもさることながら、手書きの文字からは、自ら書く、量を書くことによる迫力が感じられる。

3月補遺(Awich武道館、TCAA、MOTコレクション)

※展示中の作品内容、展示構成に一部詳細に言及しています。

・Awich「Welcome to the Queendom at 日本武道館」(日本武道館/Abema TV)
 個人史のようなライブ、というと的外れかもだけど、アーティストと客演者との多様な形での関わりが、曲のテーマゾーンごとに切り口を変えながら、しかしひとつづきの語りとして提示されるようなライブだった。
 「口に出して」のMC~アカペラ部の、静かに引き込まれる迫力はやはり印象的だった。コロナ禍における客席側の制限、個人的には窮屈な一方で助かった~!と思うこともあるんだけど、ステージにおける演者の絶対性の顕示という、あらかじめ同意されたある種のイメージプレイを結果的に補完している側面もあるよなと意識させられる。

東京都現代美術館
「Tokyo Contemporary Art Award 2020ー2022 受賞記念展」
 藤井光と山城知佳子の二者を取り上げている。
 藤井の作品は、第二次世界大戦後の日本における、アメリカ占領軍による戦争画収集を主題としている。戸惑いが先行するインスタレーションアメリカ占領軍の「日本の戦争画」の位置づけに対する苦慮の記録(これは保護すべき文化財なのか?廃棄すべきプロパガンダなのか?...)が、こんにち戦争画の展示を前にしたときの個人的な逡巡(当時の社会的文脈と切り離して、単純に美的なものとして鑑賞してよいのか?/すべきなのか?)とリンクする。
 山城の《チンビン・ウェスタン》は国立新美「話しているのは誰?」(2019)でも見たけど、西部劇ふうの酒場の場面、それぞれの異なる背景をもって同じ土地で生きる二人が、戯画化された役割を背負うまでしないと同席できないと暗に示されるようで、印象的な場面である。
 《肉屋の女》は三面画面を効果的に使っており、体得的に「わかる」感触、例えば水の中でふやけた精肉の質感、...が異なる意味を重ねながら突きつけられる作品である。

MOTコレクション 光みつる庭/途切れないささやき」
 一部前期展示を引き継ぎつつ再構成されている。序盤は大型めの絵画作品に入れ替わっており、良い作品を点数出してるのに自分の集中力が追いつかないまま目が滑ってしまって、混乱してしばらく展示室ぐるぐる回っていた...。あとで詳述するように、特に平面作品の質感のメリハリが効いている構成だった。
 展示室に入ってまず目に飛び込んでくる中西夏之《柔かに、還元》は、ぱっと見に藤棚のような華やかさがあって、第一室らしい作品だった。画面を構成する限られた色どうしが、互いの影にも光にもなって関わりあっていく様子が楽しい。
 石川順恵の作品は、大型の画面の上にフェルトのような質感が載っているのが面白い...と思ったら、水墨画の技法を参照したもので、画材的には砂らしい(キャプション参照)。
 桃源郷的山水を描いた三瀬夏之介《山ツツジを探して》は、鑑賞キョリだとちょっとコンクリート壁のような質感にも見える白墨の画面に、花に見立てたピンク色の斑点が散っているのが可愛い。
 この展示室、前期から引き続き展示されている康夏奈(吉田夏奈)の地形模型作品との形状的な対比となっており、主題の共通性、作品同士の同時代性もあって部屋単位の構成が良かった。
 三階は版画スタート。版画、美術館で鑑賞するジャンルとしては自分の中で比較的優先順位が低かったんだけど(作品の規模感とか複製性とかがしっくり来てなかったんだと思う)、今年に入ってからめちゃくちゃ面白くなってきた。
 すいかという「陽」っぽいモチーフに暗いかげりが差す浜口陽三《西瓜》、複数技法を使用することで同じ画面内の黒色にも異なる質感が生じている浜田知明作品が特に好き。

舞台『アイドルランド・オブ・ザ・デッド』

※公演内容の詳細に言及しています。

『DANPRI STAGE :アイドルランド・オブ・ザ・デッド』(ヒューリックホール東京)

・ユメ目ミラーボールの下で踊りたいよ。
・今回舞台中央の扉を、ベッドを嵌めたり屋台を嵌めたりシルエットスクリーンを嵌めたり...自在に使っているのが興奮した。舞台上に狭い空間が出来るのがそもそも好きだし、エレベーター的な形の扉がキービジュアルになるのも、同じ場所にいるままに違う空間に繋がっていくワクワク感があって好きなんだよね..。
・いち・に!いち・に!で頭悪くなった。
・前作でも思ったけど、コヨイのウィッグの色がとても好き。ブルーアッシュからアッシュを抜いたような...と表現しても実際そんな色は無いんだけど、強い光を受けて透ける青系の美しさが絶妙に出る色だ。
・「どっか行って、帰ってこなかったじゃん!」で二重に悲しくなってしまった...。
・「困っていますか?」「困ってます」の問答が好きだから、千秋楽配信飛ばすのかと思ってちょっとハラハラした。
・ノートの切れ端、笑い物としてしか認識されず、演出上もシルエットのままそこから出られないマリオが、徐々に人格を確立していくの胸が苦しくなる。
・スカウトシーンのダークナイトメア、「いない」場面では身体を乳母車に折り畳んでいるシンヤのシルエットが強烈。このシーン、勧誘一回につき二人で決めポーズ一つを嵌めてくのがテンポ良かった。
・「器が大きい」と紹介されるシンヤ、このシーンで個性の強すぎる元パラ達と同じ土俵で向き合う姿を振り返ると、確かに...と思う。
・前作のゴッドボーイズ周りというか冒頭のめが兄ぃの語り(プリパラは現実とは切り離された逃避先、しかしそのトップのWITHは現実でもキラキラ、的な...)あまり納得いってなかったんだけれど、今回サラリーマン三人がアイドルキーを取り出した瞬間、人生が彼らのもとに引き戻されるのを目撃した情動で涙ぐんでしまい、この場面に回収されるなら前作の語りもまあ良しとするか~とすら思ってしまった。疲れたサラリーマンもヘキなら仕方ないね!
・エックスパパンのセンターが哺乳瓶構えて凄絶な表情するところ好きだ。アンサンブル(でいいのか?)良い方々揃いだったね。
・探索シーンの知育ゲームパート大好きで毎回懲りずにウケてしまった。
・探索シーン、リュック背負った四人のジュブナイル的なバランスがかなりツボだった。ウシミツだけシャツベストなの、「タイプの違う同級生達が未曾有のパニックにたまたま居合わせてしまった」感が強まる。
・コヨイのスニーカー、アサヒよりソール厚い。違う型だったんだ...。
・アサヒの得物が鉤爪だった時、オタクく~ん!と思ったが、ハサミ解体してあの形なのでは説を聞いて脱力してしまった所がある。
・めが兄ぃがシンヤに銃口(の形をしたもの)を向けたのは普通に見たくなかった。
・一公演内でピエタのどちら側もやるアサヒ。
・真っ暗な劇場に轟く雷鳴とマリオの高笑い、現場だと体感がディズニーランドの怖い寄りのアトラクションだった。
・アサヒ、あの柔らかい顔と丁寧な動きが、どんな席からも全て自分に注がれているかのように錯覚させる人間だ。
・千秋楽配信のライブ、アサヒの「この宇宙の果て超えて」で前髪が後ろに靡いて、ウィッグがそんな動きすると思わないから目を奪われた。
・オレーザービームって、まだ「本当にアイドルたちの興奮したコールや歓声でざわめいているフロアを、コヨイがジェスチャーひとつで静めてから始まった」ことは無いんだと思って、ちょっと寂しくなっている。
・全体曲の冒頭、サイリウム何色で振るかに手間取って(ゾンビ応援していいのか?的な)手元見てたんだけど、終演後同行者から「コヨイ、ショウゴと背中合わせになるまでずっと(ゾンビになった)アサヒのことガン見していたよ」と教えられ、これは負けだなと思いました。

2月補遺(久保田成子、江戸東京博物館)

◼️東京都現代美術館「Viva Video! 久保田成子
 昨年11月に同館を訪れたときは、体力と時間を勘案して久保田展を外したので、今期これで全部観たことになる。
 新潟から東京、そしてアメリカへと渡った久保田の足跡を追う史料中心の前半部。ヴィデオに造形の要素を導入した「ヴィデオ彫刻」期に入ると、作品がぐっと大型化する。
 そのひとつ、本展の広報画像としてもしばしば引用されていた《スケート選手》(1991ー92)は、銀盤を模した鏡面から光が反射して、背後の壁に影絵のようなやわらかな炎が立ち昇っていたのが美しかったが、そこですかさず作者本人によるスポーツナショナリズムへの言及を添えている。
 (ここに限らず、墓というモチーフとの関わり、「なぜ山に登るのか?」、病院にカメラを持ち込むことについて...等、キャプションにおける作家発言の引き方がかなり面白かった。)
 作品として一番好きだったのはナムジュン・パイクとの共作《パイクによるマースによるマース パート2:マースとマルセル》(1978)かもしれない。繰り返される「これはダンスですか?」という問いかけ。彼らに影響を与え、これまでの作品でもたびたび登場していたデュシャンの姿が、MADばりに加工されながら映像に刻まれていく。踊り狂う女性の肉体が古い映像の荒い粒に帰することに、何故か安心感を覚える。

◼️江戸東京博物館
 長期休館前に行ってきた。
 小学生のとき江戸時代の生活文化図録みたいなシリーズが大好きで、その本にしばしば引用されていたのが江戸東京博物館の展示模型だったので、一時期は憧れの場所だったのを思い出した。
 大人になった今展示全体を概観すると、両国という土地の文脈によるものか知らないが、興行風俗に関する展示が厚くて助かる。あと現代東京の地理に明るくなってからの方が当然ながら楽しいね...。
 博物館の特色でもある仕掛けつきのジオラマは更新も大変だろうが、改修ではそのあたりに手を入れるのだろうか。

 ところで、江戸博についても論じられている『東京ヴァナキュラー』をこの機会に読んでいるのだけれど、本の内容を踏まえつつ今回の鑑賞体験を振り返ると、思い当たる節がありすぎて面白かった。
 例えば、先述した「興行風俗展示の充実」も、本書で取り上げられていた、国家権力の中心としてではなく、庶民の都市としての江戸/東京を描き出そうとするフレーミングに依拠したものしれない。 
 また、江戸博の常設展は入場してすぐ日本橋の実寸大?模型を渡り、さらに渡った先に江戸時代の活気溢れる日本橋界隈のミニチュア模型が展示される、日本橋がある種象徴的に扱われる構成になっている。
 私は(先述した図録で)この展示の「日本橋」を先に知っていたので、関東に越してきてから、首都高の下をくぐる現在の日本橋に気づいて「あっここなんだ、ちょっとイメージ違うな」と思ったことがあったんだけど、これはまさに本書終章にて取り上げられている事例だった。
 休館明けまでには精読完了したい。

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 これは大名屋敷の模型内に舞台を見つけたので、家の中に舞台構造があったら...嬉しい!という気持ちを忘れないために撮った写真。
 これも今見るとめちゃくちゃ博物館学的欲望極まってるな...。

埼玉県立近代美術館「MOMASコレクション第4期」「扉は開いているか:美術館とコレクション1982ー2022」

 埼玉県美行ったことないの流石にワックだな...くらいのモチベーションで行ったんだけど、ここ最近で一番興奮した展示だった。

◼️MOMASコレクション第4期
 まずコレクション展を見た。三室構成でコンパクトだがぎゅっと詰まった展示だ。
 第一室は「自然」をテーマに、モネやシャガールといった近美的ないわゆる名品から、シュルレアリスムスーパーリアリズムまで、ボタニカルという一点によって連関した作品群が一堂に会する。
 今日において、収蔵品を制作時代や主義潮流ではなく、あるテーマに沿って横断的に展示するのはさして特殊なことではない。
 しかし、この後の企画展で展示されていた雑誌『新建築』内の本間館長(1983年当時)の発言からは、開館当時からまさにこの第一室のような展示手法に意識的に取り組んできたことが窺え、熱かった。

 第二室「たなごころの絵画」では、掌の中でしげしげと鑑賞するような小品を特集している。版画作品、特に小型のものって、今までそこまで食指が動くことがなかったが、様々な作家のそればかり集められると、確かに標本箱やミニチュアの玩具を眺めるのにも似た興趣が発生していた。
 別の宇宙を精緻に剥離してきたかのような日和崎尊夫、静物の乾いたニュアンスを紙に載せる山本容子、それこそ標本めいた網目を紙に落とした宮脇愛子が好きだった。

 第三室は「ダンス、ダンス、ダンス」と銘打ち、フランスで活動し舞踏に関心を注いだ画家・末松正樹の作品を特集している。
 第二次世界大戦期、フランスで敵性外国人として拘留された末松は、絵の中で踊ることを希求しながら、ダンスをモチーフとしたデッサンを繰り返したという。
 この、近年作家遺族から寄贈されたというデッサンが、第三室では迫力ある点数をもって展示されている。画群の中でダンサーたちの足は林のように立ち並び、腕の動きはまるで舞台の幕のひだのようにも見えてくる。
 コレクション展全体を通して、寄贈・寄託作品の割合がかなり高いのも特色かもしれない。長短どちらからでも語れることではあるが...。

◼️扉は開いているか
 開館40周年記念展。
 郷土作家をはじめとする作品の収集やリサーチ、そして時宜に応じた企画展の開催という、県立美術館としての営みの蓄積を見せる章「美術館の織糸」が素晴らしかった。
 展覧会当時の新聞記事やフライヤーなどの史料展示も絶妙で、例えば新聞評を読んで高松次郎《布の弛み》まで足を戻したり、展覧会「日本の70年代」(2012年)のフライヤーがアングラ演劇のアートワークオマージュでテンション上がったりしていた。
 展示の最終章では現代のアーティストとの共同制作について取り上げている。佐藤時啓、ハコを総括する展覧会において佐藤の作品は禁止カードにも近いというか、作品が惹き起こす情動が強すぎるため、回廊での展示はよいところに落ち着けた感がある。

ニットキャップシアター『チェーホフも鳥の名前』(座・高円寺)

 ※上演・演出内容への言及があります。
 
 先住民族・囚人・移民、季節労働者...、多様なルーツを持つ人々が暮らし、一方で度重なる統治の変動に翻弄されてきた土地、サハリン(樺太)の人々を描く物語。

 作中時間が100年近くのレンジをもっており、必然的に多世代にわたる物語なんだけど、世代間の兼役のチョイスがすごく絶妙だった。チェーホフ=宮沢=ミジャの「鳥」の兼役は言うまでもなく、個人的にはソフィア=チョムスンがかなりぐっときた。
 ナターシャ=マーシャ=節子は世代ものの業...子世代は親世代が成せなかったものを背負って描かれる、そして全ての時間を観ている観客もやはりその業の蓄積に加担している...を感じさせる配役だった。それはそれとして、新劇におけるチェーホフ作品のヒロインを思わせる人物が、次登場したらばりばりに京都弁を取り回す人物に変わっていたの好き。

 演出面では、休憩中に舞台上にだらりと敷かれ、?と思って見ていた白いシーツが、その後ふっと跳ね上がって、役者たちの影を客席に迫るほど拡大させるスクリーンに変わったり、ネタ光を投影した上で役者にその下を捲らせる幕に変わったりするのが、シンプルなのに効果的で印象に残った。
 机と椅子のレイアウトのみによって、「時間が経った同じ場所である」ことを想起させるのも好き。

12月・1月補遺(XPEED、ユンヒへ、フレンチ・ディスパッチ)

※上映中の作品の内容に対する言及があります。

・「XPEED」(clubasia)
 客席内、ステージと直角になるような位置にフラットにサブステージを作っていた。おそらく転換上の要請によるものだろうけど、ミニマムに舞台の正面性が入れ替わるのがかーなり面白かった。遠慮して端に寄ったら次の演者の時には最前に立つことになったり、「横から(=本来の正面のスピーカーから)音に殴られる」みたいな感覚の食い違いが生じたりする。

・映画「ユンヒへ」
 小樽から母ユンヒに届いた、旧い「友人」・ジュンからの手紙。その手紙に自分の知らない母の人生を垣間見たセボムは、ユンヒを冬の小樽旅行へと誘い出す。
 「雪と月、夜と静けさが似合う」と語られる通り、劇中の小樽は上品に景観が切り取られ、ソフトな美しさに満ちている。その上で注目したいのは、台詞内でも言及された旧手宮線跡地の存在である。
 旧手宮線は北海道の(かっこ付きの)「開拓」期に、石炭を小樽港から道外へ輸送するために整備された幌内鉄道を源としている。北海道の主要鉄道の一部として小樽の発展を支えたが、小樽経済の衰退に伴い1985年に廃止となった。
 廃線後、跡地の一部はレールを敷いた形で公園として保存・整備されている。小樽という土地がかつて経験した繁栄と斜陽の記憶、そして、遺構の「保存」を試行する過程それ自体の記憶が交ざり合った場所であると言えよう。
 冬の旧手宮線跡はレールの上に雪が積もり、一見ふつうの遊歩道と見分けがつかない。しかし、その下にかつての軌道があるのだと捉えること、セボムが今で知らなかった母の姿を見つけること、そしてユンヒがそれまで蓋をしていた自らの人生や感情と再会することは、伏流のように関連しているように思われる。

・映画『フレンチ・ディスパッチ:ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』
 編集長の死により廃刊に際した『フレンチ・ディスパッチ』誌。その誌面から抜粋して語られる記事たち。
 ドールハウスを作り込むように精巧な画面で、ちょっとした挿話に割くギミックじゃないんだわ...と感じる瞬間も多々。
 特に、旅行記事?のパートで、しゃらくさい紀行が始まる空気を醸し出してから、画面二分割して新旧の街の一隅を映しまくるところが好きだ。対比してるからといって別に再開発に成功してるとかではない。
 エピソード的には「シェフと誘拐犯」の異邦人のくだりの処理が印象的だった。雑誌記事という「書いたもの」「語られたもの」ベースの映画の中で、「書かなかったこと」「自ら開示しなかったこと」の話されると弱い。あと食前酒の描写がやたらと美味しそうで、グルメ記事の名残を思った。ピクニック用の小さな魔法瓶ほしい。
 エンドロールで『フレンチ・ディスパッチ』誌の歴史とともにあった表紙たち...が次々と映るところで謎にじーんとしてしまった、実際にはさっき会ったばかりの雑誌なのに。