※作品の内容に触れています。
ダンサー・振付家の橋本ロマンスと、家畜の着ぐるみパフォーマンスで知られる美術家サエボーグのコラボレーション。人類に極限まで食肉を与えるために変異された鶏、「パワーチキン」をめぐるステージである。<芸劇dance>シリーズ公演。
客席は直角二方向からのオープンステージで、階段座席の最前列はアクティングエリアと床を共有している。牧場を模した舞台には、プレイグラウンドめいた緑色のリノリウム。サエボーグ作品でおなじみの乳首の浮いた肉感ある家畜たちが、(無言ではあるものの)動きかしましく登場すれば、そのドタドタとした足音の振動が伝わってきた。ちなみに着ぐるみパフォーマーたちは公募オーディション選出の「中の人」が公表されているが、誰がどの役なのかは事前公開されていない*1。
牧場の面々が一通り会場を練り歩いた後、いよいよタイトルロールであるパワーチキンが登場するのだが、率直に言って度肝を抜かれた。開演前に目を通したプログラム上では、かの着ぐるみは食玩のシークレットよろしくシルエットで紹介されており、言うてキービジュアルで顔出てるやんけと不審に思っていたのだが、見事に思う壺である。扉から挿し込む曙めいた光を背に、無数の脚を床に這わせながら、つま先からしずしずと歩いてくるパワーチキン。その姿は巫女か宗教家のような神々しさだ。客席のすぐ前を通過するだけで緊張感が漂う。舞台の中央に円く落ちた明るい光が生々しい肉の色を拾っても、その神性は変わらない。
パワーチキンは行き着くところを知らない献身と、仕掛けに満ちた着ぐるみのギミックをつまびらかに開示する。無数に生えた脚を一本一本自らの手で外し、観客に手渡していくパワーチキン。外されたファスナーがリボンのようにだらりと垂れ、風船のようにぷにっと膨らんだ肉の断面が露出する。更に予想だにしなかったパーツまで「与えた」後の形態は、その後の道行まで含めて神事芸能を思わせた。
しかし、パワーチキンが胴の肉まで「与え」尽くす段に至っては、さすがに献身の印象も変わってくる。自分が連想したのは餅まきだ。お調子者の中学生がペース配分を考えずに餅やら菓子やらをばら蒔いて、早々に在庫を枯らしたりする、あの光景。最初に感じた畏敬、崇高さがある程度剥がされた代わりに、自治共同体が後景化した現代において公共劇場が演じる*2、特定のではない、ミームでもない「地元の祭り」その最前線*3を見たという気持ちになった。
加えて、客席にいくつものミラーボールが下ろされ、全着ぐるみ総出で踊り狂うアッパーな光景には、狩人や漁師が獲物の塚を建て、殺虫剤メーカーが虫を弔うような、生業のためにせざるをえなかった殺生を供養する年中行事を幻視する。本来ストロボを焚きたかったのか邪推するスローモーション、ちらちらと光るミラーボールの残滓。それはそうと全キャストオフしたパワーチキンはプリシラすぎる。
そんな祭礼を率いたパワーチキンと対比して注目すべき存在は、やはり同じく鶏であるサエチキンではないだろうか。サエチキンはパワーチキンとは別個体で、採卵鶏をモチーフとした着ぐるみだ。大きなアナル(実際に排卵可能)を持ち、着ぐるみの正面と「中の人」の体の正面が入れ違っている構造で、その逆転によるトリッキーな動き(鶏だけに)が魅力的なキャラクターだ。祭礼が過ぎ去った後、家畜たちから取り残されたサエチキンが産卵しようといきんでみせるが、結局産まずに土をついばみ続ける(と予想できる)場面がある。「生産性」に身を貢じることを選ばなかった方の鶏生、とも捉えられて示唆的である。
本公演は条件付きで撮影可能(発光機能禁止、暗いシーン・静かなシーンでの撮影禁止)だった。正直なところ、撮影者の判断に委ねる分、全面撮影可能/禁止よりも茨の道だと思うし、実際自分が観た公演では若干空気がピリつく場面もあったが、その上で「劇場以外の文脈で活躍してきたパフォーマーを招くにあたっての、公共劇場の選択」として注視したい運用である。
以前観たサエボーグ作品