Ry

了/観たものについて書く。

2024年4月/補遺(東京都現代美術館、我孫子市鳥の博物館)

◼️TCAA2022ー2024受賞記念展

・津田道子「Life is Delaying 人生はちょっと遅れてくる」

 入ってすぐの展示室〈生活の条件〉(2024)では、暗い室内にいくつかの額縁、鏡、そしてスクリーンが懸けられ、その中に時折役者たち...年齢や性別はさまざまで、皆白シャツを着ている...が立ち現れては消える。反射的に映像演劇を連想しまうが、彼らが取り上げるのはより卑近な生活動作だ。情報の絞られた展示室において、ダミーの額縁や鏡の反射、あるいはその場に立つ鑑賞者の肉体の力を借りて役者たちの立体感はいや増し、リズムのよい空間を多声的に成立させている。

 〈カメラさん、こんにちは〉(2024)は、幼少期の作家とその両親を撮影したホームカメラの映像を、俳優の年齢勾配もジェンダーも取っ替え引っ替えに12回「再演」した映像作品である。同じテキストを演じながら、役者の解釈、年齢差のギャップetc.の要因により、ずらりと並んだモニターの中で交わされる演技の味が少しずつ異なっていくさまは、確かにディレイと呼びたくなる。というか「同じテキストを違う役者が演じる」を12パターンも一覧のもとにできるのはそれだけで贅沢。特に「母」の演技に生じたディレイはそれぞれに興味深い。

 

・サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」。

 舞台はそこかしこに糞の転がった農場だ。書き割りの「ドールハウス」は途中で途切れ、そこから先は剥き出しのホワイトキューブが寂然と広がっている。展示室の中央には光る盆。その台座の上に、ぷっくりと下肢の膨れたラテックスの犬...サエドッグが現れる。盆に歩み寄ると、サエドッグもこちらに近づき、その頭や鼻面をみずから差し出してくる。

 自分は動物を飼育した経験がないから、動物の体のどの部分を触ってよいものかよく分からない。仕方なしに、ラテックスの継ぎ目に沿って頭を触ってみる。

 自分の前後に展示室内に入ってきた他の鑑賞者たちは、こちらを遠巻きに見渡すと、盆に近づこうともせずに次の展示へと向かっていく。逃げるな戦えと内心恨めしく思いつつ、おっかなびっくり犬を触り続けていると、だんだんと撫でくり回すことに抵抗がなくなっていく。過去に「女性アーティストが展示室に自分自身を鑑賞者が干渉できる形で展示したところ、来場者が徐々に過激化、暴力化していった」という話を読んだことがあるが、自分がまさにその来場者になりかねないのではないかと頭のどこかで危惧している。

 ところで、先ほど「動物を飼育したことがない」と書いたが、実際にはごく幼い頃に接していた犬がいるっちゃあいる。祖父母の家で飼われていた黒い雑種の老犬である。聡明な犬だった。当時は自分の身丈とそう変わらない生き物が怖く、アトピー気味だったのもあって、祖父と一緒に散歩へ連れていくぐらいの触れ合いしか持たなかったが、自分は今でも犬という生き物になんとなく好感情を抱いている。

 タイトル「I WAS MADE FOR LOVING YOU」から自分が真っ先に連想したのは人形やぬいぐるみ...多く子どもたちのパートナーとして作られ、その成長過程においてしばしば「卒業」される玩具たちである。サエドッグの庇護を訴えるような涙目も、通気孔回りが禿げた毛並みも、かの老犬と類似する特徴は見当たらないにも関わらず、どこか仮託できるところがあり、紛れもない「おもちゃ」としての性質が見出だされる。

 展示室から離れるときに感じるのは、足元にすがってくる愛玩動物、押し入れにしまった人形に対する身勝手な罪悪感に近い。いっそ撫でているうちに手を噛まれたほうが良かったのかもと、これもまた身勝手に望んでいる。

 

◼️ホー・ツーニェン エージェントのA

 シンガポールを拠点とするアーティストホー・ツーニェンの個展。

 「サンシャワー」展(2017)で観た〈一頭あるいは数頭のトラ〉を再見する。イギリスによるシンガポール入植期、白人測量家とトラが遭遇した事件を切り口とした本作。向かい合う二枚のスクリーンの中で、ヒトは囁きトラはウタう。朗々と、かつ微に入った情感豊かな声がたゆたう。「二匹」が語るエピソードは幾重にも折り重なりながら複雑な層を成す。植民地下のシンガポールにおいて、「御しがたい外敵」であるトラが指し示す対象がそうであったように。

 山口情報芸術センターとのコラボレーションである〈ヴォイス・オブ・ヴォイド:虚無の声〉(2021)は、太平洋戦争下、大東亜共栄圏や特攻賛美の思想を下支えした京都学派の学者たちの「声」(本人の肉声記録ではなく、現代のそうそうたる俳優や演出家たちが「声を貸し」ている)を聴くVRプログラム。体験者は座る、立つ、横たわる...といった身体所作を通じて4つの空間を行き来する。個人的に印象的だったのは、大東亜共栄圏に肯定的な文章を残しながら、一方で共産主義者を保護したかどで拘留され、終戦を待たず獄中死した学者を取り上げた「監獄」である。VRのイントロダクション的な映像における、「受け入れられない思想をも前向きに解釈して取り込もうとする態度に学者自身が疲弊している」という指摘が、この時代の思想者の(後世から見ると)アンビバレントに思える姿勢に手がかりを与えている。

 

◼️MOTコレクション

 一階は移動をテーマとした「歩く、赴く、移動する」。2020年度のMOTサテライトにて、美術館周辺地域での旅を記録したワタリドリ計画の作品を紹介している。フィールドワークや巡検、あるいは観光ではない、あくまで「旅」と呼ぶのがふさわしい温度...土地への入り込み加減や、(観察者ではなく)作家の自我がごく自然に存在している雰囲気にそれを感じる。この作品が「コレクションとして」当地の美術館に展示されている状況自体がちょっと嬉しい。

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 同展では末松正樹のドローイング(1944ー1945)も展示されている。WWⅡのフランスで敵性外国人として拘留された中にあって、夥しい舞踊のドローイングを残した末松を、「移動」というテーマへ組み込む構成に惚れぼれする。腿、ふくらはぎから踵まで林のようにすっくと立つ足のラインと、腕の軌跡なのか紗めいた衣装のなのか、それとも振り付けの輪郭なのか、どれとも取れる弧線が取り巻く上半身のギャップが好き。

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◼️我孫子市鳥の博物館

 手賀沼沿いにある博物館。春の行楽にちょうどいい場所らしく、周辺は平日としては賑わっている。ここが博物館か~と思って最初に入った建物がその向かいの直売所だったため、タケノコやらイチゴやらをリュックに詰め込みながら博物館に入館し直す羽目になった。

 常設展示は、世界中の鳥を系統だてて一覧のもとに剥製展示した展示室が、これぞ驚異の部屋!(驚異の部屋は一般的に悪口ではない)という印象で気圧される。フエガラスの紹介「常に集団で行動し、攻撃的。さえずりは変化に富み美しい。(引用)」、繰り返し読みたくなる文章だ。全体的にグレーな展示室に置かれた紫色のソファがかわいい。一昔前に設置された理系博物館に特有の「当時の近未来」的な色彩感。

 企画展「猛禽類」。小さなスペースに標本もキャプも詰め詰めで、それぞれの対応関係がやや分かりにくい傾向こそあるものの、(更新しづらい常設展を補完更新しようとしているだろう意図も含めて)情熱ある企画展示だった。館内総じて、整理された情報コーナー~ミュージアムショップ周りとか友の会活動とか、地域博物館として行き届いてる雰囲気が随所に漂っており、その点でも好感度が高い。

 そういえばハクチョウはそれまで遠目でしか見たことがなく、先の常設展示の剥製の前で、意外と大きいんだな喧嘩になったら負けそうだな...とか考えていたところ、その後手賀沼~手賀川周辺を歩き回った際に繰り返し遭遇することになる。ある一羽は、散歩中の近隣住民よろしく歩道の向かいから普通に歩いてきてちょっとビビった。

2024年3月/RIP with RoyalーT(CIRCUS TOKYO)

 年度末の就労者として業務その他作業の反復にシコシコ勤しむうち、反動的に思い立って22時を回ってから家を出た。前売券は公演日21時まで購入できたが、当然所持していない。渋谷付近に差し掛かった頃には既に折り返し終電が怪しい時刻に到達しており、これで仮に当日券が売り切れていたなら、始発待ちの渋谷にすすんで身を投げに行っただけの抜け作になるかと思うと、地下鉄に乗っている間ずっと手が冷たかった。

 果たして当日券は存在した。無事収容されたサーカストーキョー地下ではOblongar氏がDJの最中だった。小回りな軸で円を描くような運動...というのは、絶え間なく切り替わる映像に引き摺られた印象かもしれない。コンタクト外れそ~と思った瞬間に目がぐるりと回転する映像が出てきてちょっと笑う。

 高解像度で投影されるなめらかな映像が、ふとインクめいて倒錯したざらつきを帯びる。韓国のクルーPlanet Turboのロゴ(?)だった。ガシガシと垂直方向に掘削するシークエンス。蠱惑的なトラックに挿入されたCatarrh Nisin氏のダブ?を何回もリワインドし、少しずつ少しずつ先を聴けるようになるのが、その日一番というくらいワクワクして待ち遠しかった。

 次がそれこそ公演の数日後にCatarrh Nisin氏との曲を発表していたJacotanu氏だったが、2023年春~夏に矢継ぎ早にリリースしていた曲がたくさん組み込まれていて嬉しかった。以前別分野の文章で「その身体性を行使して観客に音の捉え方をガイドしてくれる人が好き」と書いたことがあるがまさにそのような人で、フロア前方に陣取った人らの動きの影が(おそらく自分も含めて)徐々に演者の身体の跳ね方へと似通っていく様子を見るのは気分がよかった。

 暑さと人にぶつかる不安で体調が参ってきたのでラウンジに上がる。以前訪問した際、一階で酔っ払いに絡まれて不本意に退散したことがあり、ずっと引け目に感じていたので、ラウンジが空いてるうちにそれを払拭したかったのもあった。階段の中途、直角に曲がった踊り場から見下ろした暗く熱気ひしめくフロアには折しもRoyalーT氏が「Rumble」を掛けていて、こんなにも熱帯林の喩えにふさわしい状況もそうないだろうと思われた。

 一階で眠気にぐらついていたところ、Nizikawa氏がぐにゃぐにゃベースの曲を立て続けに/バリエーションある形で鳴らしていて一気に目が覚めた。思わずShazamした曲が見返したら明らかに見当外れで、後日それらしい曲を総当たりして探す。どこかでスウィーニートッドの声ネタが挿入された曲が流れていたいたように思い出される。スウィーニートッドの声ネタって何?

 DJ切り替わりのタイミングで、機材の何かしらなのか手を替え品を替え延々とandrew,なかむらみなみ「Duxi」が掛かっていた。どの程度大変なのか全く分からないため、ブースの向こうが慌ただしかろうが一生ヘラヘラしていられる。目端の利かない人間が状況を心配するには曲が楽天的すぎる。

 Duxi背景の交代劇を制したThat Fancy I氏は、綺麗な曲...多く紗がかった女声を使用した、メロディーが美しく踏みやすい曲...を主体に、ラウンジを終演まで持っていく。That Fancy I,Shunji Fujii「Mind」はつやーっとして音の粒立ちがよく、体感としは今までで一番よい音環境で聴けたかもしれない。ラストで掛かったTakaryu,nyamura「your winter」は概念としての"4曲目"というか、つまり最後を飾るのにふさわしくて、胸から腕をひらくような柔らかさのある曲だ。

 扉の外に出ると、3月らしくだいぶ早朝の寒さもゆるんでいた。身体に時間が付着していて、その余韻ごと持って帰るような心地のまま、動き始めた電車に乗った。

2024年3月/DALLJUB STEP CLUB presents「3%」Release Party [Garden](下北沢LIVEHAUS)

このイベント

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ではじめて知ったバンドであるDALLJUB STEP CLUBが、ライブの最後にアルバムリリースしますリリパも開催しますという告知をしていた。ので行った。LIVEHAUS。LIVEHAUSにはガラナがあるしアマレットも置いてある。アマレットをお菓子作り以外の用途ではじめて見かけた。

 演奏者たちは「置いてきぼり曲」?「置き去り曲」?と称し、ブリッジを長めに取りながら悠々と曲を連ねて披露していく(おそらく「観客が置いてきぼり」の意だろうが、全くそのようなことはなかったと言い添える)。音の引き出しの多さと、以前も書いたように「面的に鋭い」、正しく打撃と呼ぶべきドラムが魅力的。

 オープニング・クロージングDJがTYO GQOMだった。設営上、DJブースがステージひいてはスピーカーに垂直に組まれているから、仮に観客がDJの方を向くとすると、時として殴打めいた低音が右半身に降りかかることになる。スピーカーの内部で今にも亀裂しそうなパーカッション。とりわけオープニングの中盤(オープニングの中盤?)で挿入された横殴りの三連符は凄まじかった。

 また、数歩移動するだけで音の体への響き方が変わり、あの小さな空間の中だけで変化に富む音地図が触覚的に描かれているように思われた。あまり知識のないジャンルの曲を踏んで踏んで、他の観客から声が上がる曲にそうなのか~と思ったりしているうちに、終盤も終盤で掛かった「So U Kno」の、知り合いに行き会えたような嬉しさたるや。

2024年2月/舞台芸術の「未来」をのぞむ連続講座2023 第5回 アーカイブ〜その創造性と未来志向(配信)

 舞台芸術制作者オープンネットワークが主催する、「人と舞台芸術のあり方を見つめ直」すための配信講座シリーズアーカイブをテーマに据えた第5回は、社会学者の吉見俊哉氏と、作曲家で「紙カンパニーproject」のメンバーでもある松延耕資氏が講師を務めた。

 講義内容について詳述は避けるが、吉見氏の講義はアクロバティックでありながら実践の上での基盤も固める内容でとても面白かった。自分は「アーカイブ」と聞いたときになんとなく公演の記録動画を念頭に置いていたが、当然ながらそこに留まらず網羅的でボーダーレスな保存を可能としている現代のデジタルアーカイブの可能性。「公演」に軸なす水平な時間と垂直な時間、場をもって過去を語らしめようとした吉見氏自身の実践...果てはブルック『なにもない空間』における均質な空間観に対する反駁にまで至る。

 また松延氏は、公演を捏造し、あたかも公演が行われたかのようにアーカイブを見せかける劇団である紙カンパニーprojectの活動を紹介。クロストークでは、記録によって生ずる公演の変質について触れながら、その豊かさこそを肯定的に論じていた。

 

 ところで本講座にて紙カンパニーprojectの新作公開制作のことを知った。ので行った。会場は中野のギャラリー「水性」。歩行者の多い通りに面したギャラリーは、制作期間中はΦ野区(中野区ではない)区長選挙に向けた選挙事務所を装っている。その過剰にパフォーマティブな選挙戦の佇まいに、短い滞在の間にも通行人がぎょっとして中を覗き込んでくる様子が何回も見受けられた。

 選挙事務所の過剰さとは裏腹に、会場で放映されている候補者の語り口は非常に堅実で、当初予想された、いわゆるオモシロ枠的な印象はまったくない。主張に演劇観を引くにあたって「客席から舞台に干渉できる」と訴える人間は個人的には非常に信頼できる一方で、信頼できすぎて政治家としては逆に自明に裏切られそうな予感もする(?)が、どのような作品になるのか。

 先の講座で紹介されていた、実際に19世紀フランスの劇場で起こった事件をモデルとした紙カンパニーの「公演」である「エルナニ2022」のムックもあった(Webでも閲覧可能)。公演に飽き足らず事件までも捏造しようという企画もさることながら、劇団ではない第三者がスクープしたという体のムックに漂ういわゆる逆張り的な諧謔もまた「演劇的」に感じる訳だけど、そのムックを締めるのは「観劇」した佐々木亜美氏(仮名)の素朴なコメントで、逆張りと順張りの綱引きの絶妙さにぐっとくる。新作もそうだが、演劇をまっすぐに面白がる視点と構造的に茶々入れしたがる視点、どちらかでも欠けていたら、そもそもこんな事業を遂行しようと思わないだろうしな....。

2024年2月/DANPRI FESTIVAL(文京シビックホール)

 文京シビックホールである。雨の中、東京ドームに流れていく揃いのバッグの人たちを横目にホールへ向かう。そちらはそちらで別のコンサートらしい。文京シビックセンターは建物を貫く大きな吹き抜けがあって、チケットセンターが2階にある。ロビーがホールだけでなく全施設共通だから誘導は気を遣いそうだと思う。

 開演直前になって緞帳が降り、どうしたどうしたと思っていると、開幕即楽屋を模した寸劇がスタートする。ヘアメイクとの干渉を避けるためか知らないが、後ろ開きにファスナーの付いたライブTが可愛い。

 演者の退場後、改めて出囃子が流れ始め、しれっとライブパートへと移行する。一連の動きをヘラ~ッと眺めていたのだったが、何台もの白いムービングライトが瞼のように上下に跳ねひらいた瞬間、ガンガンに仕込まれた照明の線を画面越しに悔しく思いながら追いかけた2021年5月を思い出してかなり胸に迫った。音楽ホールにガッツリ照明音響機材を持ち込んだ設営の独特な良さがある。ry-kun.hatenablog.com

 マリオ新曲「ストロベリー・バレット・ナイト」。本公演のために作られた新曲という出自だそうでひっくり返る。曲調には一皮剥けて走り出したような爽快さがあり、アニメ11話で起こるだろう何らかを想定した曲なのかな~と思っていたが、歌詞は割と10話である。あまりにも。

 WITHの2曲目(部替わり曲)、夜の部はオレーザービーム。昼の部終演時点でやるのだろうとは思っていたが、今まで配信ないしは発声なし公演でしか聴いたことがない曲だったから、この曲を歓迎する周囲の観客(アイドル)の反応や歓声がダイレクトに打ち寄せてきて嬉しかった。今回は叶わなかったが、録音された音声ではなく、興奮したコールや歓声でリアルにざわめくフロアをジェスチャーひとつで静める高瀬コヨイが見たい。近々叶いそうな気もする。

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 挨拶後のラスト曲で客降りがある。ガーッと客席階段を上がりきって、あたりを見渡して満足そうに帰っていくウシミツ。こちらには来ないだろうと思っていたアサヒが近くまで来て、うわーっ!と思って目ェガン開いていたら、戻り際にさっと手を振ってくれた。これもパンフレットにて触れられていた「アサヒと目が合う体験談」のひとつになる。今回のパンフの座談会、演者間の演技スタンスの違いの話や演劇現場のフローの確認の話など、内容が充実していて面白かった。

 エンディング後、鳴り止まないコールのうちにWITH単独ライブの告知。ここから隙自語だが、初めてWITHの(演者による)ライブを観た2019年4月~は、その後のコロナ禍を抜きにしても自分の基盤が繰り返し大きく変動した期間だった(今も変動している。どうしよっか♥️)。ライブと上京のタイミングが合った時に隙間を縫って現場に駆け込んだり、配信に切り替わった公演を引っ越したばかりの自宅から観たり、就労により躊躇せずチケットが買えるようになったり、逆に仕事が入って現場を諦めることが増えたり...。環境も、自分自身の志向も嗜好もどんどん組み変わっていく中で、これまでの自分とこれからの自分の連続性を担保してくれた存在のひとつがプリティーシリーズでありWITHだった。そのWITHが遂に単独のリベンジマッチをしてくれることが、とても嬉しい。