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2024年2月/El Cielo 2020 冬LIVE(MUSICASA)

 ピアソラスペシャリストを標榜する四重奏団(Vn./Vc./Cb./Pf.)「El Cielo 2020」のオールピアソラ、完全生音でのライブ。

 そもそもピアソラでいうと自分は去年の暮れに(『オタクはelctro swingが好き』を引用して)「オタクはピアソラが好き」などと適当を抜かしていたのだが、ふざけてないで一回真面目にピアソラを聴こうという反省の念からチケットを取ったのだった。

 ムジカーザ代々木上原の駅前から伸びる坂の途中にある。内輪向けのいけすかないサロンだったらどうしようと必要以上に身構えながら向かったが、中に入ると思いのほか居心地がよい空間だった。

 小規模ながら高さや角度の異なるバルコニーを設えた客席は視角の変化に富み、しかも本公演は自由席だから「自分で選んだポジション」への愛着が強まる。また音響面でも、弦が指を滑る音まで聞こえる緊密さに加えて、今までそこまで重視したことがなかったエリア音、例えばピアノが旋律しているときに伴う響きとか広がりとかさえ驚くほどふっくらと聞こえる豊かさも備えている。

 四者の演奏は闊達かつなめらかで、特に演奏を牽引するヴァイオリンは、迷いなく天に突き抜けていく光の軌道のようだ。一方で、例えば弦パートであれば弓で弦を撫ぜつけたりするような、生理的に引っ掻きのある音色もそれぞれ際立っており、楽団ひいては作曲家の個性を雄弁に印象づける。

 好きだった曲でいうと、Contrabajisimo(コントラバヒシモ)はコンバスのソロから始まる、MC曰く「コンバス次第でいくらでも長くできる」曲。コンバスだけを聴く機会もなかなか無いが、たっぷりとしているのに独特の間合いで観客の息を切らせない。

 Coral(コラール)はその名の通り教会音楽を思わせる展開で、ヴァイオリンとチェロのデュオで進行するパートが多い。他の曲においてコンバス/ピアノのリズム隊的な躍動が魅力的だからこそ、そのギャップでデュオ二者間だけのぴたっとした音の接着に胸を掴まれる。

 それからリベルタンゴはやはり人気曲には相応の理由があると言うべき風格で、演者たちの弾きこなしもさることながら、観客がその鑑賞身体を演者そして楽器、何より楽曲そのものにドライブさせて楽しんでいるのが会場から伝わってきた。

2024年2月/Lighting!!!(秋葉原MOGRA)

 「空間演出機材を多数導入した『光る』実験的PARTY」(公演情報より引用)を掲げるイベントで、本回が3回目の開催となる。光に群がる蛾のモチベで行く。照明ガン見することに正当性が付与されている空間は嬉しい。

 会場はDJブース側に上手・下手、高・低合計4ヶ所のレーザーと、フロア中ほどに上下一対のムービングライトが特設されている。4台ものレーザーが全開になると空間の奥行きは光の束でほぼ埋め尽くされる。なるべく自分の身体で光線を遮らないよう気にかけながら、まるで波打ち際みたいに跳ねる。面というよりもはや板状を呈した碧いレーザーに、スモークの効果がまだらに挿し込まれた瞬間は息を呑むほど美しかった。

 ムービングライトは360°ぐるりと頭を回し、腕で光を追い掛けてもいずれすり抜けていく。投影される壁や床、それぞれとの射程によってネタ光の形状がくにゃりと変容する。レンズから放たれる光の芯と疎密とを至近に見上げる。光に巻き込まれた小さな埃がちかちかと暗闇にきらめく。

 iuri氏のDJでRASのR・I・O・T掛かったの嬉しかったし、咄嗟に危ないなあと思ってた最前ダッシュまで踏み出しかけてすんでで止まった。

 dubbin'の空間演出として存じ上げていたもののDJを観る機会をことごとく逃していたLIFE is SAMPLINGは、中盤?くらいの刻みながら崩壊していくような展開が好きだった。全体に硬質なのに揺動する。公演の数日前に初めて聴いてかっこいいなあと思っていた「Pianos Raining Down」が掛かって楽しい。あと「BoilermanーOverheated」がMOGRAの会場で聴けたの地味に嬉しかった。

 続くK8氏のDJはちょっと不思議になるほどリラックスしたムードだった。細かく足を切り返し続けるような楽しさ。手を替え品を替え刻み方を替えて延々と繰り返される序盤の展開だけで一気に惹きつけられる。

 今回ブースの一段手前には最後の演奏を飾るItoShin氏のためのキーボードブースが特設されていた。ハッピーな和音が連続するキーボードソロを、見よう見まねに囃しながらゆらゆら揺れる。学生時代に持っていた想像上のクラブ概念(クラブというのはハウス?がずっと流れている場所で、ゲイカルチャーと親和的な傾向にあり、フロア?にいる人間は皆いい気分で踊っているらしい...踊るったって具体的にどのように?)を思い起こす時間だったなと、帰宅してから思った。

2024年2月/e.g.o. [SPREAD 4th Anniv.2](下北沢SPREAD)

  12月に思いがけず目撃したsentimental hardwareを観て、もう一度何が起きていたのか確かめたかった。ので行った。

 SPREADは採石場の地下にできた洞のような空間だった。吊り下げられた持ち込みの白い電球は、前回観たときはその点滅によって白昼夢のような効果をもたらしていたが、今回は演者も機材も、扇状に取り囲む観客までも詳らかにして、眩くなまなましい質感を産み出している。

 聞き覚えのある、しかし曲名までは分からないアニメソングやボーカロイドの歌の鱗片が聞こえる。フェイスガードの横に取り付けられた作業灯の小さな光が早々に床に転がる。輸血袋のような金属の箱が何度も何度もバットで殴られる。やがてひしゃげて踏まれて打ち棄てられるまで、私たちはその打撃を聞く。それはひたすら興奮にドライブしていった12月とはまた違う感覚だった。照り返しの強い大通りで遂行される、人体破壊の人形劇のようだ。この場から目が離せないまま、引き攣れる音も声も耳に入ってくるのに、ただその場に立ち尽くすだけの自分がとてつもなく残忍な人間のように思える。

 

 混乱の余韻が抜けきらず、一度屋外に出る(ドリンク代で再入場可能だった)。北沢タウンホールまで歩く。窓口は閉まっていたが施設内には入り込める時間帯で、館内は帰りの利用者と時折すれ違うのみだった。煌々としたエントランスから一歩奥に踏み込むと、半ば野外のような昏く巨大な吹き抜けが建物を貫いている。整頓された公共施設の顔から一転、途方もない空間をその身に抱えているチャーミングさにめろめろになって快復した。

 会場に戻る。SPREADで印象的だったのは一つとして散漫な光源がないことで、意図の汲めなかった配置の灯体も、それぞれに設営・編成の異なる7組の出演者たちの各々にかちっと填まる瞬間がいずれ訪れる。

 最後の演奏はDALLJUB STEP CLUBだった。面的に鋭いドラムと、とろとろと軟らかく溢れていく上音が、演奏の時間軸を強烈に意識させる。音が鳴る端から、その音もいずれ経過して消えてしまうことが惜しくなるのだ。今流れていくこの音に踏み留まろうとして、観客は足を踏み体を揺らす。

2024年1月/超・邦楽コンサート:時空を超える 箏と尺八(小金井宮地楽器ホール)

 LEO氏(筝)・黒田鈴尊氏(尺八)による公演。新春らしく(下旬だが)「春の海」に始まり、現代邦楽の名曲からクラシックカバー・電子音楽カバーまで、公演タイトル通りジャンルを横断するプログラム。

 宮地楽器ホールは木とコンクリの取り合わせが美しい一方、入館~もぎり位置の動線が難しそうに思われるのだが、親身な表回りスタッフや整理された情報コーナーをはじめとした随所へのホール運営の蓄積に痛み入る印象だった。メインホール舞台の奥行きはしっかり広く、二人の演者に集中させるために反響板明かりのエリアを絞っている。客電点く前に一回ホール全体がふっと暗くなるの独特だな...。(そうでもないかもしれない)

 依然として管楽器のことがよく分かっていないのだが(2023年後期はさまざまな場面で素晴らしい管楽器の演奏を聴いたことで進捗が見られたが、それでも他の楽器に比較すると)、本公演の尺八演奏とは、例えば「春の海」でのウタいの闊達さや息の深さをフックに、鑑賞身体への結びつきを得ることができたように思える。

 筝は曲ごとに絃数の異なるものを何台も取り回しており、実際さらさらと典雅な音の筝から音の陰影がまるい筝、ベース楽器並みに太い筝まで、音の性質の違いとその適材適所が素人にも明白なほど現れている。

 筝自体もそうだが奏法も多様で、自分は2階席だったのでその手わざを角度を以て眺めることができた。カシャカシャと擦るような弾き方、絃の長い範囲をさあっと掌で掃く弾き方、絃を摘まんだ手を高くひっくり返す弾き方、絃に向かって横からスライドするように手を差してノイズを立てる弾き方、絃の縁近くを叩いてコンバスのような効果を出す弾き方...。身体から遠い絃を爪弾く際、自ずと楽器を抱き込むような姿勢になるのが、(ステージマネージャーがあまりに涼しい顔で運搬しているので忘れていたが、)筝って大きい楽器だよな...と当たり前のことを思い起こさせる。

2024年1月/「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容(渋谷区立松濤美術館)

 戦前日本において流行した前衛写真運動と、その精神性を受け継いだ戦後の写真潮流を、瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄の4名をキーパーソンとして追う展覧会。ここまでに千葉・富山・新潟を巡回。

 松濤美術館においては、第1会場(2階)で前衛写真の登場~大辻初期(1950年代)、第2会場(地下1階)で大辻中・後期(1970年代)~大辻の弟子である牛腸が特集されている。展示リストにおける第2章「大辻清司 前衛写真の復活と転調」が階を分割される形。展示のボリュームとしては地下1階に重心が傾いている。写真運動といえば雑誌媒体がその舞台となるためか、全体に雑誌史料の引用が厚い。

 前半(第1会場)で最も印象的なのが、阿部が演出、大辻が撮影した、「オブジェ」として趣を凝らした裸婦の写真(1950年代)である。女性の貌を布で覆い無徴のものとして仕立て、頭上には複雑な図形を描きながらぴんと張る糸、そして腹に寄った皺までも球体関節人形めいた人体観に利用したその写真を観ると、造形的な「再構成」に感心すると同時に、これを生きている女性人体でやったのマジでしゃらくせえな...という感想が自ずと去来する。例えば前衛写真に見られる海岸漂着物の再構成(これは大好き)とは違うと感じるのならば何故なのか、胸に手を当てて問い直そうとしつつも、いや明白に違うだろカマトトぶるなよ、との思いが秒で湧く。〈無言歌〉(大辻、1956)は好き。

 そのような事由で、うっすら気に食わなく思いながら後半(地下1階)に降りたのだが、個人的にはここからが面白かった。

 被写体とその周囲を広い間合いで捉えたコンポラ写真という潮流に影響を受けた大辻は、1975年『アサヒカメラ』誌上連載にて自らを「被験体」と称した写真の実験室を開設する。実験のある回では、撮影者の主観のフィルターを排した「もの自体」の写真を撮ろうとして、その存在の逃れがたさに気づく。また「なりゆき構図」の回では、大まかな動機のみでシャッターを切った作品をいざ現像してみて、撮影時は気づかなかった風景のディテールの詳細さに驚いている。「カメラはありのまましか写さない」*1という言葉があるが、ある面ではおおいに的外れで、ある面では実感に接近した言葉なのだろうと、どこか好奇心を感じさせる大辻の試行の後を追いかけながら考える。

 

前衛写真なるものを知った展示について

 

ry-kun.hatenablog.com

 

 

*1:ドリフェス!」という作品の登場人物である黒石勇人の発言