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2024年1月/超・邦楽コンサート:時空を超える 箏と尺八(小金井宮地楽器ホール)

 LEO氏(筝)・黒田鈴尊氏(尺八)による公演。新春らしく(下旬だが)「春の海」に始まり、現代邦楽の名曲からクラシックカバー・電子音楽カバーまで、公演タイトル通りジャンルを横断するプログラム。

 宮地楽器ホールは木とコンクリの取り合わせが美しい一方、入館~もぎり位置の動線が難しそうに思われるのだが、親身な表回りスタッフや整理された情報コーナーをはじめとした随所へのホール運営の蓄積に痛み入る印象だった。メインホール舞台の奥行きはしっかり広く、二人の演者に集中させるために反響板明かりのエリアを絞っている。客電点く前に一回ホール全体がふっと暗くなるの独特だな...。(そうでもないかもしれない)

 依然として管楽器のことがよく分かっていないのだが(2023年後期はさまざまな場面で素晴らしい管楽器の演奏を聴いたことで進捗が見られたが、それでも他の楽器に比較すると)、本公演の尺八演奏とは、例えば「春の海」でのウタいの闊達さや息の深さをフックに、鑑賞身体への結びつきを得ることができたように思える。

 筝は曲ごとに絃数の異なるものを何台も取り回しており、実際さらさらと典雅な音の筝から音の陰影がまるい筝、ベース楽器並みに太い筝まで、音の性質の違いとその適材適所が素人にも明白なほど現れている。

 筝自体もそうだが奏法も多様で、自分は2階席だったのでその手わざを角度を以て眺めることができた。カシャカシャと擦るような弾き方、絃の長い範囲をさあっと掌で掃く弾き方、絃を摘まんだ手を高くひっくり返す弾き方、絃に向かって横からスライドするように手を差してノイズを立てる弾き方、絃の縁近くを叩いてコンバスのような効果を出す弾き方...。身体から遠い絃を爪弾く際、自ずと楽器を抱き込むような姿勢になるのが、(ステージマネージャーがあまりに涼しい顔で運搬しているので忘れていたが、)筝って大きい楽器だよな...と当たり前のことを思い起こさせる。

2024年1月/「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容(渋谷区立松濤美術館)

 戦前日本において流行した前衛写真運動と、その精神性を受け継いだ戦後の写真潮流を、瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄の4名をキーパーソンとして追う展覧会。ここまでに千葉・富山・新潟を巡回。

 松濤美術館においては、第1会場(2階)で前衛写真の登場~大辻初期(1950年代)、第2会場(地下1階)で大辻中・後期(1970年代)~大辻の弟子である牛腸が特集されている。展示リストにおける第2章「大辻清司 前衛写真の復活と転調」が階を分割される形。展示のボリュームとしては地下1階に重心が傾いている。写真運動といえば雑誌媒体がその舞台となるためか、全体に雑誌史料の引用が厚い。

 前半(第1会場)で最も印象的なのが、阿部が演出、大辻が撮影した、「オブジェ」として趣を凝らした裸婦の写真(1950年代)である。女性の貌を布で覆い無徴のものとして仕立て、頭上には複雑な図形を描きながらぴんと張る糸、そして腹に寄った皺までも球体関節人形めいた人体観に利用したその写真を観ると、造形的な「再構成」に感心すると同時に、これを生きている女性人体でやったのマジでしゃらくせえな...という感想が自ずと去来する。例えば前衛写真に見られる海岸漂着物の再構成(これは大好き)とは違うと感じるのならば何故なのか、胸に手を当てて問い直そうとしつつも、いや明白に違うだろカマトトぶるなよ、との思いが秒で湧く。〈無言歌〉(大辻、1956)は好き。

 そのような事由で、うっすら気に食わなく思いながら後半(地下1階)に降りたのだが、個人的にはここからが面白かった。

 被写体とその周囲を広い間合いで捉えたコンポラ写真という潮流に影響を受けた大辻は、1975年『アサヒカメラ』誌上連載にて自らを「被験体」と称した写真の実験室を開設する。実験のある回では、撮影者の主観のフィルターを排した「もの自体」の写真を撮ろうとして、その存在の逃れがたさに気づく。また「なりゆき構図」の回では、大まかな動機のみでシャッターを切った作品をいざ現像してみて、撮影時は気づかなかった風景のディテールの詳細さに驚いている。「カメラはありのまましか写さない」*1という言葉があるが、ある面ではおおいに的外れで、ある面では実感に接近した言葉なのだろうと、どこか好奇心を感じさせる大辻の試行の後を追いかけながら考える。

 

前衛写真なるものを知った展示について

 

ry-kun.hatenablog.com

 

 

*1:ドリフェス!」という作品の登場人物である黒石勇人の発言

2024年1月/吉祥寺ダンスLAB vol.6 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク「言葉とシェイクスピアの鳥」(吉祥寺シアター)

※一部上演中の作品のテキストに言及しています。

 

 吉祥寺シアターは開口部が多い劇場だ。そもそも舞台が額縁なくひらかれたエンドステージではあるのだが、4ヶ所の客席扉は別にしても側面6ヶ所の左右扉、欄干から見える階段の非常口サイン、今回については奈落に矩形の穴も空き、他の劇場であれば観客の目に触れない箇所も含め多くの開口部が存在している。そして最たるは舞台奥にある搬入シャッター。これらの開閉によって舞台の向こう側にもうひとつの空間が立ち現れては潜み、単なるアクティングエリアの追加に留まらない効果を与えていた。

 

 上演においてもっとも印象的だったのは照明の自在さである。ある場所を照らす/あるいは照らさない選択、光源のバリエーション、何より客電への意識の高さ、関節と筋肉を伴っている照明だ。光だけに限らず、拡声・映像その他領域も含め、劇場を非常に柔軟に動かしている。配布された鑑文に「ダンスを見に来たつもりが」という言葉がある。身体の動きを見るつもりで劇場に来たのなら、本作ではその身体が劇場(作中表現に寄り添うなら「舞台」)に拡張されているのを思いがけず目の当たりにする。

 

 一方で演者たちは、特定の身体、例えば観客の身体をひとつの「集団」として拡張していく存在ではあり得ない。この作品は、とかく演者が演者を見る。一人の人間とそいつを見ている人間がいれば演劇が成立すると言うのなら、既に舞台上だけで同時多発的に演劇が起きている。異なる力学に動かされる演者を見つめる他の演者の目は怪訝そうで、観客は、いやあなたにも同じことを感じているからねと思わずにはいられない。

 

 ところで、上演中に「今にいられない」という台詞が登場する。ライブのコールアンドレスポンスを模した問答のさなかに、唐突に挿入される独白。私はある公演で自分が観た動作、聞いた言葉を全て拾いたいと思いながら、同時にそれを端から諦めている。忘れたくない言葉を反芻しながら、同時に今起きている動作に集中することはとても難しい。ある場面を観ながら、頭の中ではずっと前の場面や、悪くすれば全く作品に関係ない出来事について考えていることもある。だから、熱狂を目の前にしてシチュエーションから遊離するこの台詞に近しさを覚える。

 

最終盤の演者たちはシャッターの向こう側に絵画めいて収まり、こちらを見つめている。最初に述べたとおり額縁のないエンドステージの劇場にあって、シャッターが本来的でない額縁の任を負うことになる。「以上をもちまして」ではなく「気をつけてください」から始まる終演アナウンスを聞いて、今まで危険な場所に置かれていたのだと却って思い至る。

 

 本作のクリエーションは、兵庫県豊岡市にある城崎国際アートセンターの2023年度アーティスト・イン・レジデンス(滞在制作)プログラム内にて取り組まれた。参加者による滞在レポートはスペースノットブランクHPの公演情報リンクから閲覧できる。私はこれを事前に読み、「ご飯が美味しかったんだな...」ということだけ印象に残して劇場に向かった。

言葉とシェイクスピアの鳥 __ 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

2023年12月/SPRAYFEST(clubasia)

 2021年設立のダンスミュージックレーベルSPRAYBOXによる初主催イベント。

 自分にとってSPRAYBOXは、はじめは今まで知らなかったジャンル音楽の魅力と猥雑かつポップな印象のアートワーク、現場で観てからはパフォーマティブでエネルギーに満ちたステージに惹かれ、加えて自分とタメや少し年下くらいの人たちが見通しをもってレーベルを運営し、実際成果を蓄積している様子が率直に言って眩しかったため、継続的にチェックしている存在であった。ので行った。

 

 clubasiaのメインフロアは相変わらずタッパがあり、頭上高くファンが回る気配が届く。その暗闇に多くの機材が息づく中、ステージ正面では3面のスクリーンが明るく浮かび上がっていた。That Fancy I・Shunji Fujiiー「Mind」のイントロが流れた途端、その全てが光の尾を流す高速道路やモノレールの映像に切り替わり、スムースな印象同士の合意が取れている...と思って愉快になった。

 andrew B2B Carpainter は他のTREKKIE TRAXの方も参加していて、MC入りしたなかむらみなみ氏がとにかくチャーミングだった。「Funky Beatz(NirBorna Remix)」掛かって嬉しい。

 1時を回ったくらいにラウンジに移動する。他の人に押されて飲み物を溢しそうになりマジでビビる。ラウンジはSPRAYBOXでリリース歴のある若手?の方が中心に出演していた。出番中の演者と客・他の演者が流動的に交流しており、自分はまったく関係ないのだがこちらの雰囲気も楽しかった。出演者情報が出たときは観たい人総覧できないの意味が分からないなとかナマ言ったりもしたが、それはそれとして回遊性の保障された空間は最高。

 

 3時ちょっと前くらいにメインフロアに戻る。UhーU!が橋渡しあたりで「UFO-mie」使っていた。そのままブースは英国から招聘されたSharda氏へと明け渡される。自分は2022年の来日公演を仕事で諦め、個人的には珍しいことにしばらく未練がましく思っていたから、冒頭「Sweetheart」のボーカルフレーズが幾度もいくども繰り返しフロアに降りそそぐうちに感極まってしまった。中盤に大好きな「I Want Your Soul」掛けてくれて大感謝だったのだけれど、曲に気づいて顔を上げると、ももいろの光の帯が演者の背後からフロアへと広がっていたのに加え、スクリーンには花びらの舞う映像が投影されており、さながら想像上の極楽めいた様相を呈していた。思いがけず(知らないところで告知されていたのかもしれないが)「New Connection」でボーカルのMEZZさんが登場し、大いに盛り上がる。こちらも現場を拝見するのがなかなか叶わなかった方なので嬉しかった。

 午前4時からSPRAYBOXが登壇する。本公演の特典として配布予定のVIPパックと11月発表のEP「THE RAVING SIMULATOR」の曲をそれぞれ軸に、ゲストボーカルやMCが入れ替わり立ち替わり登場する華やかなステージで、出番が終わった他の出演者や撮影スタッフまで含めると、もはや舞台上がもうひとつのフロアのような混み具合であった。誰かしら絶え間なくお立ち台に来て観客を煽ってくる。ブースにしなだれかかりながら歌うTORIENA氏の姿が、みんな骨抜きになってしまう...と怖くなるほど印象に残ったのと、昨年業務が辛くなるたびに聴いてはどうしてそんなこと言うの...と余計ども落ち込んでいた「IDWWMT」を生で聴けたのが熱かった。

 永遠にも続きそうに思われた時間はThat Fancy I氏渾身の「Mind」への切り替えで引き戻され、kyoー「How can I live」「(曲名不明)」とアンセムが続き、観客は歓声を上げると同時にこの幸福な交歓の終わりを予感する。最後にはふたたびの「New Connection」が掛かり、多幸感の余韻を残しながらもきちっとイベントは終了した。とはいえ帰りがたい客は僅かな時間ラウンジに居残っていた。

 帰りにきつねそばを食べた。おいしかった。

2023年12月/GOODNIGHT ANNIVERSARY Vol.23 (新大久保bacon)

 冬至のしんしんと冷えた夜だった。

 店内はどこもかしこも薄青く、イケメン通りに面した喫煙所への扉がしばしば開閉されるため、どんなにパフォーマンスが熱気を帯びたとしても冷涼であった。定期的に白いスモークが噴射され、前方の観客たちはあまい匂いの煙の中に埋もれていった。

 自分の眠気の度合いもあり、2時台~3時台くらい、Sentimental Hardware→リョウコ2000→illequal氏の一連がとりわけ記憶に残っている。

 Sentimental Hardwareは人間の二人組で、あらゆる暴れを片っ端から実践していた。演者のひとりはバットを振り回し、マイクを咥え、スピーカーに立ち向かう。一音一音置きにいくような音の隙間にすら興奮が引き攣る。演者もそれを取り囲む観客も目を爛々とさせたある種異様な光景が、持ち込み?の白い電灯に明滅してどこか夢のように映る。例えるなら出先で思いがけず餅を配られてホクホクするみたいに、これで年が越せる!と率直に思えるパフォーマンスだった。この人らも出番前は同じフロアにいて、そのエネルギーを潜めていたのだと考えると不思議だった。

 余韻冷めやらぬまま、フロアの床掃除も終わりきらぬまま間髪入れずリョウコ2000が滑降する。名曲cold pills、ラストクリスマスを筆頭に、アルバム「Unknown Things」に登場したニュートラルな印象の音を、より過激に色彩づけながら織り交ぜる。その流れを引き継ぐillequal氏で自分のギアがかちっと噛み合う心地がして、個人的に身体を揺らすのがいちばん楽しい時間だった。

 ブース真上にある大きなファンの奥にはミラーが貼られていて、DJの手元が見えるようになっていた。気づいたときは面白がって何度か見上げたが、なんか自らが羞知らずの窃視野郎のように思えて止めた。