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了/観たものについて書く。

東京国立近代美術館「大竹伸朗展」

 腰を据えて鑑賞できるコンディションの日に行こう...と思ってた展覧会なのに、けっこう勢いで見てしまった。

 作品リスト/章ヘッダー以外のキャプなし(カタログポケットから閲覧する方式)。前半セクションは展示室間の往来の自由度が高く、かつ順路に従わなくてもストレス少ない構成なの好きだった。

 私は直島憧れキッズ時代を経てるので、やっぱりインスタレーション系が響くかなーと予想してたのだけど、実際観て一番好きだったのは、表面にプラスチック樹脂を塗り込めた写真?シリーズ「網膜」かもしれない。

 石材やコンクリの床をワックス掛けしたかのようなツヤツヤの表面には、意図してか知らずか気泡が浮かび上がっていて、シリーズ内でも作品によって気泡の入り方がけっこう違う。小さい真珠が散らばったような気泡、ところどころ霜が降りたような気泡、スマホの画面のひび割れのような気泡、潰れてしまった水ぶくれのような気泡。

 プラスチック樹脂は側面まで丁寧に塗られ、ということは側面にも気泡は点々と存在しており、以前全然関係ないところで耳にした「この絵はキャンバスの側面まで仕上げられているので完成度が高いです」という言葉を何故か思い出した。

 一階前半の記憶セクションにあった「46 記憶の形」は、何故かイコンぽいなという第一印象だった。右下に描かれた人物の顔とか、画面を区切る金色使いとか、あと画面を埋めるコラージュ?のモザイクタイルみが混ざって無意識に牽強付会しちゃったのかなーやだなーと思ってたけど、展覧会が進むにつれてより形式面でイコンに近い作品が出てきたのでほっとした。牽強付会ではないです。

 あと一階前半でいうと「44 残景14」など、キャンバスに木材や礫?やワイヤーを貼り付けた作品が、鳥瞰図を眺めるのにも似た感覚になる構成で好きだった。しかしこの形式が大型化すると、何故かというか順当にと言うべきか、全体の構成よりも個々の素材感に目がいくようになったのが面白い。二階会場の「213 ゴミ男」とか「216 残景」とか、子どもの頃ニス塗った木片を踏み割った記憶とか、図工の時間にビーズ学校に持ってきたら持ち去られた記憶とか連想してたからね...。

 一階後半はコラージュ・スクラップ作品が中心となる。私はコラージュがかっこいいのが一番かっこいいという価値判断の人間で、それは大竹やその周辺のアーティスト達の影響によるものだと思ってる。一方で彼らが擁してきたイメージ...例えば収拾なき収集、猥雑さの称揚、高確率で登場する半裸の女体...に惹かれつつ逆張りしたくなる気持ちもあり、複雑な感情が喚起された。

 ともあれ、(貼り重ねられたものの)「下層の気配」という大竹の言葉を引いて始まった、コラージュ作品のセクション「層」は素晴らしかった。特に展覧会全体でもトップで好きだったのが、一階出口付近にあった〈東京ープエルト・リコ〉だ。

 工場地帯らしい港の夕景は、実はキャンバスに短冊状に敷き貼られた新聞の上に描かれており、場所によっては絵の上にさらに新聞が貼り重ねられている。海から立ち昇る暗い気配も、遠い空が暮れる前の一瞬の赤さも、工場だか道路だかの光の明滅も、胸が締め付けられるほど美しい景色の全ては、まったく異なる情報とあらかじめオーバーラップされている。

 

 コレクション展の方は、コラージュうま人間のもう一極であるところの岡上淑子が出展されてたのがまずアツい。同じセクション内、古沢吉美〈プルトの娘〉は犬頭の裸婦画なんだけど、血管立った腕や存在感のある膝とかに、悪趣味ではない放埒さがあって好きだった。

 落合朗風〈浴室〉は屏風の片側に風呂と女性、もう片方に脱衣所を描いた作品で、解説されてるように位置関係や奥行きがねじれていて、一方で平たい線と屏風という形状のせいでドールハウスの飛び出す絵本的な立体感が生まれていて妙なおかしみがあった。