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六本木クロッシング(森美術館)

 だいぶ久しぶりに森美術館、というか六本木のあたりに行った気がする。森美術館は企画展示室が完全にひとつらなりで間室がなく、かつ円形で自分が今展覧会のどの段階にいるのか感覚だけでは掴みにくい?から、HP消費を調整しつつの周回前提みたいな巡り方になる。

 特に印象的だった作品を以下に記す。

 ※一部作品の内容に触れています。

 

・青木千絵『BODY』(連作)

 展示序盤に現れる立体の「下半身」は、足指から膝あたりまでは微細な窪みまでリアルな造形をしているが、それより上は餅のように膨らんだり伸びたりしている。

 造形のふくらみは一見ガラスを吹いたような印象だが、それにしては素材に透けがない。つやつやとした黒い表面はフェティッシュファッションのように美しいが、まさかラテックスではないだろう。...と思っていたら、キャプションで発泡スチロール+漆と分かって膝を打った。

 漆の朱溜まりか知らないが、ちょうど足指のあたりに赤黒い漆の模様が出ている個体がいて、そこだけ血豆のような皮膚みがあって好きだった。

 

松田修『奴隷の椅子』

 鑑賞者は、映像の語りは作家の家族に材を採ったものだろうと予想できるのだが、映像内で例示された、我々が今座っている「椅子」の来歴はおそらくあちこちからのもので、特定の個人史から同じような問題を経験した複数の記憶への広がりを感じた。

 

・キュンチョメ『声枯れるまで』

 あいトリから再見。「私が決めた私の名前を叫ぶ」という行為は、個人による個人のための称揚的な意味合いに固まりそうなところ(それも絶対に削ってはいけない意味づけだと思う)、一緒になって叫んでへろへろになっている人がいること、「えっ誰が?」みたいな、スローガンに乗らない素の聞き返し等が残っていることで、作品としての幸福なひらかれ方、鑑賞者へのフェアなパス回しをしているなと思う。

 

・玉山拓郎『Something Black』

 展示室内には赤い光、抽象的な黒い構造物。構造物に圧迫されて行きて帰るほどの幅しかない通路を歩くと、しかし誰もいない町を探索しているかのような広がりを感じる。

 キャプション「窓から見える六本木の景色を~」的な記述が(多分)あり、初見は全然窓の外見えなくない?と思ったのだが、時間が経ってから周回すると先ほどは気づかなかった光源の気配をうっすらと感じ、見上げると傾きはじめた太陽が窓の画角に入り込んでいた。

 

・進藤冬華『よそから来た人』『そうして、これらはコレクションになった』

 今回いちばん好きだった。

 進藤の作品のうち、特に『そうして、これらはコレクションになった』では、架空の民族のミュージアム・コレクションとして、作家手づくりの「民具」と、その着用ポートレート、そして手書きの収集ノート...「民具」のサイズや用途などが記録されている...が並べられている。どこかユーモラスな民具たちは、異なる他者の生活文化に出会える博物館のいとおしさと、一方でかつて博物館が異民族の資料収集・展示過程において繰り返してきた不均衡な営みを想起させる(「to avoid identifying a  person」が纏いうる皮肉よ)。

 その上で、制作物の手芸品としての丁寧さ...例えば『よそから来た人』を構成する着物は、風俗展示の典型を模したように見えて、実際のところ膨れ織りの布遣い、おそらく既製のハンカチのミッケみたいな使い方など、ディテールが非常に効いていている....は、制度の位相をずらすにとどまらず、展示品そのものへの想像力を生み出している。

 

・ SIDE CORE/EVERYDAY HOLIDAY  SQUAD『rode work ver. tokyo』

 組み合わされシャンデリア状の巨大な発光構造物を成す交通整理標識たち。秩序を守る穏当なアピール手段と目されていたものたちが、都市を書き換えるだけの主張と力をもつ光として意識し直されるのが大好き。