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ピーピング・トム「マザー」(世田谷パブリックシアター)

 「ピーピング・トム」の文字を初めて見たのは、たぶん2010年くらいの来日公演のチラシだと思う。そのチラシは洋酒入りの良さげなチョコレートみたいな印象で、つまり当時の自分にはまだ早かった。

 自分が継続的な観劇習慣を身につけたのはここ数年に留まる。しかしそれ以前でも、近所の公共文化施設でチラシや他所の施設誌をせこせこ物色する中で、印象的だった公演の名前は記憶に残っている。そうした公演と時機が合い、今度は舞台と客席の間柄で会えるのは嬉しい。

 

※以下、公演の内容を記述しています。

 幕が開くと、舞台上の冷気が隔たりを越えて客席に寄ってきた、と感じた。

 場面が明るくなると、舞台セットには美術館のようにいくつかの絵が掛けられていることが分かる。奥にはレコーディングスタジオのようなガラス張りの部屋(場面によってはこの部屋の中で、出演者自身が他のダンサーの動きに合わせて効果音を作っている)。その角にはコーヒーの自販機が置かれている。

 ヒトの生活空間のサイズ感で作られた舞台セットの高さと、あらわになった世パブの高い舞台高との間に生じた「宙」に、言い知れぬ不安を覚える。

 

 自分は突然の大きい音や動きに過剰にびくついてしまう方なのだが、この公演中については、かつてなく自分以外の観客もビビってる気配が周囲から伝わってきた。

 無理もない。観客が「もう止めてくれ」と思うまで床上で溺れる身体、身体を覆うビニールを剥がそうともがき暴れる身体、あまりに長い時間継続して痙攣する身体、脚が萎えたようにふらつきながら、それでも這い摺るように移動していく身体...。

 リアルな「痛そう」「怖い」「危ない!」が、舞台上で抽象化されることなく、むしろヤバ身体のエキスパートたちによって、実感を伴う形で具現化されているのだから。

 

 ひとつの家族を描くというよりは、複数の家族の記憶の断片を集めたという本作の中で、私は火葬される母のイメージがかなり素直に印象に残っている。

 現実で立ち会う火葬とは違い、舞台上の「母」は生きている出演者なわけだから、いろいろ無視すればその目を開けてくれることも、火葬場の小さい戸から這い出てくれることもできる身体であると観客は知っているのに、でも彼女はされるがまま、嘆かれるままに葬送されるからかもしれない。